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バート・バカラック逝去、
偉大な才能を讃える(2023年 2月 8日)。

バート・バカラック(338×200)

 ポピュラー音楽界の偉大な作曲家の一人、バート・バカラック Burt Bacharach 死去 - 英BBC、米Varietyによると 2月 8日 ロサンゼルスの自宅で亡くなりました。彼の広報担当ティナ・ブラウサムは、その死因を老衰と発表しています。94歳でした。

 ソングライター、作曲家、プロデューサー、アレンジャーとして、半世紀にわたりアメリカのポピュラー音楽をリードしてきたバート・バカラックは1928年 5月、米ミズーリ州カンサスシティ生まれ。
幼い日のバート・バカラック(自伝より)シンコーミュージック
 歌手を目指していた母の影響で 幼いころからピアノやドラムスなどを学び、一家がニューヨークへ移住したのを契機に音楽に目覚め、ディジー・ガレスピーチャーリー・パーカーなどのジャズ、そして近代クラシック音楽を代表する ラヴェル などに刺激され、音楽の道を志しました。
ディジー・ガレスピー チャーリー・パーカー ラヴェル Maurice Ravel _

 ダリウス・ミヨーヘンリー・カウエルボフスラフ・マルティヌー に師事しています。
ダリウス・ミヨー ヘンリー・カウエル Henry Cowell 1923 ボフスラフ・マルティヌー Martinu 1931

 大学卒業後は ピアニストとして数年間活動した後、ニューヨークに戻り 作曲家としての活動をスタート。この下積み時代に 大女優マレーネ・ディートリヒ に見出され、彼女の世界楽旅に音楽監督として同行。アレンジャー、ステージでは伴奏ピアニスト、指揮者も務めました。
Marlene Dietrich(1932 )Shanghai-Express バカラックとハル・ディヴッド CD Jounal ディオンヌ・ワーウィック Dionnne Warwick 
 その後 1955年頃、作詞家ハル・デヴィッド と出会い、コンビを組んで 作詞/作曲をスタート、ヒットメーカーとして快進撃を開始。1962年以来 ディオンヌ・ワーウィックの歌唱で Don't Make Me Over をはじめ、Walk On By、「遥かなる影」(They Long To Be)Close To You、「世界は愛を求めているWhat The World Needs Now Is Love、「小さな願いI Say A Little Prayer など 今日に至るまでスタンダードとして親しまれ続ける数多くの名曲を発表しました。
 彼らのコラボレーションは1970年代まで続き、その個性的なスタイルは 時代やジャンルを超越した “バカラック・サウンド” と呼ばれています。

007 - CASINO ROYALE、The Look Of Love_ Burt Bacharach 映画「明日に向かって撃て」シングル盤 Butch Cassidy And The Sundance Kid OST
 バカラックは、60年代から映画音楽の世界でも活躍するようになり、映画「007 / カジノ・ロワイヤル」など 多くの映画でサウンドトラックを手がけました。
 中でも映画「明日に向って撃て!」では アカデミー作曲賞と歌曲賞を受賞、そのテーマ・ソング「雨にぬれてもRaindrops Keep Fallin'On My HeadB.J.トーマス歌唱)は世界的ヒットを記録。


 1981年にも映画「ミスター・アーサー」でテーマ・ソング「ニューヨークシティ・セレナーデ」(クリスファー・クロス歌唱)が大ヒットを記録、再びアカデミー歌曲賞受賞へと繋がりました。


 近年では 映画「グレイス・オブ・マイ・ハート」でのテーマ・ソング共作を契機に、英国のシンガー・ソングライター、エルヴィス・コステロと傑作アルバム「ペインテッド・フロム・メモリー」を発表、グラミー賞を受賞するなど高い評価を得ました。
バカラック、キャロル、クリストファー・クロス バカラックとコステロ

 2008年にはグラミー生涯功労賞、また2012年には ハル・デヴィッドとともに ポピュラー音楽で世界の文化に貢献した作曲家・演奏家に贈られる ガーシュウィン賞を授与され、ホワイトハウスで オバマ大統領から記念メダルを贈られました。

ホワイトハウスで時の大統領オバマから表彰されるバカラック(2012年) バート・バカラック 94歳で逝去
(以上、一部加筆の上 引用 -青字部分 amass 2023/02/10 00:24掲載 より )


バート・バカラック逝去、偉大な才能を讃える(2023年 2月 8日)

 天に召されし偉大なソングライターの功績を偲んで、時代を共有した私たちと同世代の人々によって、おそらく先週から 世界中の各地でバート・バカラックの手がけた多くの名曲が 熱心に聴き直されていることでしょう。


Dionne Warwick - That's What Friends Are For (with Stevie WonderGradys KnightElton John )
 
 その膨大なヒットソングが、いずれもほとんど 5分に満たぬ短さであることは あらためて考えてみると驚異的なことで - 日本の俳句にたとえたくなる - それらは凝縮された一瞬の感情そのものです。
 個性的なメロディ・ラインの魅力、真剣に耳を傾けていると思わずハッとさせられる和声進行、うっかり油断していると躓(つまづ)く変拍子の仕掛け、さり気なく使い捨てられる宝石のようなバッキング・フレーズの数々・・・ 後世のソングライターに与えた影響の大きさたるや 計り知れぬ価値を持っています。
 少なくとも 全米がディスコ・ブームに覆われてしまう 1970年代中頃まで、確実に バカラックの書いた美しいメロディとハーモニーは アメリカ・ポピュラー音楽界の、まさに主流でした。

追悼バート・バカラック (2) 追悼バート・バカラック

 名曲の数々を生み出した功績については 言うまでもありませんが、私 “スケルツォ倶楽部発起人が 個人的に忘れられない バート・バカラック生涯のエポックメイキングな事績といえば、コステロとの共作にして(クラシック/ジャズ以外のジャンルでは)最も愛聴するアルバムの一枚に数えたい名盤「ペインテッド・フロム・メモリー」(1998年)を別格にすれば、やはり マレーネ・ディートリヒのステージ・オーケストラを率いて ラスヴェガスから世界楽旅へと至る、レパートリー・ナンバーの編曲と指揮/ピアノを担当した、若き日のプロフェッショナルな貢献について 決して外すわけにはいきません。
 バカラックディートリヒとの逸話は “スケルツォ倶楽部”では また別のカテゴリーの中で描こうと考えていましたので、今日のところは さらりと触れるだけにします。

マレーネ・ディーリヒと若きバート・バカラック
 ビヴァリーヒルズで バカラックが、初めてディートリヒに見出されたとき、すでに彼女は 57歳でしたが まだまだ十分に美しく、何より銀幕の大女優という世界的な有名人 - その存在感は強力で 大スターならではの猛烈なオーラを周囲に放っており 若きバカラックを圧倒したといいます。

 以下、バカラック自伝から引用(青字)します。

「あなた、作曲もするの?」と訊かれたので「ええ、ソングライターになりたいと思っています」答えた。(中略)

 ショーのオープニングに歌いたい曲は何かを訊ねたら、マレーネ(ディートリヒ)は「ルック・ミー・オーヴァー・クロースリー」Look Me Over Closely という、ミッチ・ミラーが彼女のために書き下ろした曲の楽譜をわたしに手渡した。それを見たわたし(バカラック )は「この手のアレンジでショーをはじめるのはマズいんじゃないですか?」と言った。どういうスタイルを思い描いているのかと訊かれたので、この曲をテンポを変えて弾きはじめた。そして彼女にそのスタイルでうたわせ、メロディに身を委ねるよう指示した。わたしはまた彼女を説き、オープニングには「私の青空」My Blue Heaven をうたわせることにした。(中略)

 歌手としてのマレーネの声域は 広くはなかった。かなり大編成のオーケストラがつくことはわかっていたので - ベース、ドラムス、ギター、そしてわたしのピアノからなるタイトなリズム・セクションもふくまれるはずだ - 彼女には ちょっとスウィングしてもらおうと考えた。
 そこで「ローラ」Lola、「リリー・マルレーン」Lili Marlene、「裏部屋の男たち」The Boys In The Backroom といった定番曲はキープしつつ、新たに「ユー'アー・ザ・クリーム・イン・マイ・コーヒー」You're The Cream In My Coffee、「私の青空」My Blue Heaven、「ワン・フォー・マイ・ベイビー」One For My Baby、「メイキン'フーピー」Makin' Whoopee、「忘れられない彼女の顔」I've Grown Accustomed To Her Face などのスタンダード曲をつけ加えることにした。


マレーネ・ディートリヒ Marlene Dietrich in Rio 1959-CBS マレーネ・ディートリヒ Marlene Dietrich in Rio 1959-CBS (2)
▲ 南米ブラジル、リオ・デ・ジャネイロを訪れた際のコンサート実況盤 ディートリヒ・イン・リオ」(1959年/CBS) - 若きバカラックのピアノと 彼の編曲が施されたオーケストラ伴奏で、新しく「つけ加えられた スタンダード・ナンバーディートリヒが披露するステージの模様を聴くことができます。
 この時期のディートリヒのツアー・ライヴ・アルバムの中でも 特に この「イン・リオ」は・・・
音楽監督 バート・バカラック(マレーネ・ディートリヒ In Rio)1959-CBS
▲ ジャケットに Musical Supervision by Burt Bachrachと はっきりクレジットされている点でも記念すべき一枚であり、またその中身も 熱気を放つ個性的なライヴ盤です。
 とりわけ ロベルト・シュトルツ 作曲の「理由(わけ)は訊かないでDas Lied Ist Aus(Frag' Nicht Warum )は、バカラックの弦楽アレンジと控えめなピアノの効果と相まって ディートリヒの歌唱/演技力が素晴らしく、感動した聴衆の拍手が鳴り止みません。

バカラックとマレーネ・ディートリヒ
 (楽旅先の)都市に到着するたびに大々的な記者会見が開かれ、彼女はいつもわたし(バカラック )を同席させたものだ。すると遅かれ早かれ、わたしたちはつき合っているのかという質問が必ず出た。英語とドイツ語、そしておそらくはイタリア語のほかにフランス語とスペイン語もしゃべれたマレーネは、いつも「いいえ、わたしたちの間にはなにもありません。彼はとても忙しい上、とんでもない女たらし ですから、女性が途切れることがないんです」と答えていた。

 ところで、二人がツアーで共演していた時期、若きバート・バカラックマレーネのために何か新しく作曲を手がけた(既成ナンバーの編曲などではなく )オリジナル・ソングはないかな、と調べてみたところ・・・ 唯一曲だけ 彼らがパリで 1962年に(自伝の情報による )レコーディングした、マックス・コルペの独語歌詞による “Kleine Treue Nachtigall”(直訳「小さい清らかなナイチンゲール / 仏Barclay盤)という歌が残っているのを発見しました。


 バカラック・ファンなら 聴いた瞬間 お判りになるはずですが、これは 4年後に(1966年 )ディオンヌ・ワーウィックが 歌詞を全く変え 言語も米語(by ハル・デヴィッド )に替えて歌い、米ポップとR&Bの両チャートで トップ10ヒットとなる「メッセージ・トゥ・マイケルMessage To Michael と 同一曲(!)です。
Dionne Warwick Message To Michael ディオンヌ・ワーウィックとバート・バカラック
 ちなみに、ジェリー・バトラー Jerry Butler の「マーサへのメッセージMessage To Martha (同じ曲です )のほうが 先にアメリカで発表されていた(同年=1962年)という情報もありますが、ここでは バカラック自伝に書き残した記述のほうを参考としております。
 いずれにせよ、まだ「ベイビー、イッ'ツ・ユーBaby,It'sYou も 「何かいいことないか、子猫チャンWhat's New、Pussy Cat? も 書かれる以前の初期の作曲です。

 そうした経緯(いきさつ)を知れば、佳曲「メッセージ・トゥ・マイケル」は バカラック自身も大事にしていたナンバーだったことが察せられます。彼のA&Mでのソロ第一作「リーチ・アウトReach Out そのB面ラストを飾る位置に インストゥルメンタル・ヴァージョンで収められています。
バート・バカラック リーチ・アウト AM 追悼バート・バカラック (3)



エルヴィス・コステロ With バート・バカラック
ペインテッド・フロム・メモリー」(1998年)を 聴きなおす


 さて、語りだしたら もう限(きり)がないので、今宵は 偉大なバート・バカラックが 1998年 エルヴィス・コステロに協力する形で レコーディングした 傑出した名盤「ペインテッド・フロム・メモリー」を 追悼の気持ちを込め、久しぶりに聴き直そうと思います。
 私 発起人の個人的評価の中では バカラック作品の最高位に置きたい名盤です。

エルヴィス・コステロ with バート・バカラック ペインテッド・フロム・メモリー Painted from Memory エルヴィス・コステロとバート・バカラック  
エルヴィス・コステロ With バート・バカラック
ペインテッド・フロム・メモリー Painted from Memory
収録曲:In the Darkest Place、Toledo、I Still Have That Other Girl、This House Is Empty Now、Tears at the Birthday Party、Such Unlikely Lovers、My Thief、The Long Division、Painted from Memory、The Sweetest Punch、What's Her Name Today? God Give Me Strength

Burt Bacharach, Elvis Costello(Producer, Composed By All songs )
Burt Bacharach(Piano)
Elvis Costello(Voice)
Dean Parks(Guitar)
Steve Nieve(Keyboards)
Greg Cohen(Bass)
Jim Keltner(Drums)
音  盤:ユニバーサル/Mercury
リリース:1998年


 素晴らしい。全曲コステロバカラックによる共作。
 1995年に映画「グレース・オブ・マイ・ハートGrace of My Heart のために、「神よ、われに力を与えたまえGod Give Me Strength を二人が共作したことがきっかけで、本アルバムが作られることになった、とされています。
 映画の仕事から約 3年後となった、本アルバム発売当時 話題性の高さから国内盤リリース当日、都内CDショップで購入し、期待に膨らむ胸を抑えながら帰宅しました。
 その晩、収録ナンバーを 順に一曲ずつ、じっくりと耳を傾けていたら、そのクォリティの高さに、かつて このジャンルの軽音楽を聴いていた時には 一度も感じなかったほどの昂揚感に襲われました - 聴き進めるうち 感動は 徐々に大きくなり やがて心を揺さぶられるほどになりました。これほどまで感情を喚起させられるポップス系の楽曲には 今までほとんど出会ったことがなかった(他には ジョン・レノンの「マザー」くらいしか思い出せません )ので、とてもショックでした。
 中学生の頃、FM放送から たまたま流れてきたノイズだらけのB.J.トーマスを カセットテープに録音し、コーダ部分の変拍子が 耳憑きになって繰り返し聴いていた「雨にぬれても」以来、私もご多分に漏れず カーペンターズディオンヌ・ワーウィックに触れ、バカラックの音楽を愛好してきた「つもり」でしたが、時を経て この 「ペインテッド・フロム・メモリー」という ひとつの達成を知ることによって、実は 自分はバカラックの、明るく軽い音楽的性質の表面(うわっつら)だけしか 今まで聴いてこなかったのだということを痛感させられました。
 翌日は 仕事が休みだった(まだ独身でもあった)ので、部屋に閉じこもって アルバム「ペインテッド・フロム・メモリー」を一日中 繰り返し聴きながら、これまでバカラックが培ってきた音楽性が深く熟成し、高く昇華された瞬間を見る感覚に打ちのめされていました。
コステロとバート・バカラック
 その理由とは、やはり表現者として エルヴィス・コステロという稀有な「」を得られたことが重要なエレメントだったであろう、ということ・・・。自身も個性的な作曲家であると同時に、一人のパフォーマーとして絶大な潜在能力を秘め、ときに激情を迸(ほとばし)らせる感情振幅の広さ、生の表現に限ってはバカラックの力も及ばぬ領域に コステロは属していました。
 これに対し バカラック自身は、米ポピュラー音楽における作詞-作曲-歌手という分業システム(別称“ティン・パン・アレー” )時代のいわば “最後の一人” とも言える作曲家でした(申すまでもなく、その正反対の存在こそが 今日主流となったシンガー/ソングライターです)。

バート・バカラックとコステロ
 いわばバカラックは、彼自身の「」を持たなかった(もちろん控えめにヴォーカルを執っているレコーディングが いくつもあることは知っていますが、彼自身は 必ずしも表現者としてのシンガーではない )。彼の代わりに、その音楽に然るべき感情を込め、血肉を与えて雄弁に語るシンガーの存在が絶対に必要でした。ディオンヌ・ワーウィックでは まだここまでの表現者にはなり得ず、時代と聴衆も未熟でした。また同時にバカラックも 彼自身の音楽的成長を待たねばならなかった・・・。
 いわゆる「技巧」(=バカラック)と「閃き」(=コステロ)とが 絶妙なバランスでスパークする、二つの偉大な才能は 熟成の時を経て 絶妙なタイミングで出会うべくして出会ったのです。
 当時のインタヴュー記事などで確認できる範囲でですが、少なくとも 「ディス・ハウス・イズ・エンプティ・ナウThis House Is Empty Now と「ザ・ロング・ディヴィジョンThe Long Division の二曲に限っては 完全にバカラックが独りで作曲したもの(歌詞のみコステロ)、同様に「サッチ・アンライクリー・ラヴァーズ Such Unlikely Loversは 創作過程で 僅かながらコステロに意見が求められた、といいます。
 これら以外の作品では、もはや どちらが主導権を執ったかという区別はなく、二つの才能が 密接な共同作業の中で分かちがたく溶け合った結果であるようです。コステロに協力する形で完成した、そんなアルバム「ペインテッド・フロム・メモリー」ですが、同時に 偉大なバート・バカラック生涯の最高傑作でもある、と断言できます。

映画「オースティン・パワーズ」で共演するバカラックとエルヴィス・コステロ
 さて、以下は バカラックが自伝の中で紹介した、生涯最良の共演者の一人 コステロの証言です。最初の共作 “God Give Me Strength” 創作秘話 ともいえる 貴重な回想の一部を 引用(青字)させて頂きましょう。

 音楽監督から「バート(バカラック)と曲を書いてくれないか?」と言われたときには、思わず「何だって?」となったし、それが どういうことか理解するまでに 10秒ほどかかってしまった。だって信じる気にもなれなかったからさ。電話で初めて話したとき、曲を共作できないだろうか? と訊くと、バートはいいよと言ってくれた。一体何に取りつかれて あんなことを言ったのかわからないけど、言ってよかったと思うよ。結局は 先にゲートを出たぼく(コステロ)が、最初のヴォーカル・ラインからフックラインまで全部書き上げた状態で彼に曲を送れたわけだから。
 バートからはすぐに反応があって、いくつかラインを伸ばしたり、コードのヴォイシングを変えたりしていたけれど、メロディは基本的に同じだった。そのあと、彼がイントロのフレーズをつけ足した。そこから素晴らしかったのは、彼が「ここはマイナー6にしよう」とかなんとか言って、ベースの音を決めたことでね。曲の最初のパートには イレギュラーな小節が一切含まれていないけれど、終わりのほうには ちょっとフレーズを詰めこみすぎた部分があった。すると彼は 一部のセクションでメロディを 二倍の長さに伸ばして、そのフレーズのテンポを半分に落としたんだ。
 そのあと、ぼく(コステロ)は 彼(バカラック)に「ああ、ところでブリッジを書いたんだけど」と言った。当時はEメールなんて なかったから、こうしたやりとりは全部FAXでおこなわれ、楽譜を書いたFAXがぼくらの間を何度も行き来していた。ぼくはトップのラインを書き、録音して彼の留守番電話に吹きこんだ。するとそれを譜面に書き起こした彼から「これだけ?」というFAXが瞬時に届いたりしてね。
 そして彼の書いたブリッジが送られてきたんだけど、それこそが楽曲の真ん中で聴ける、スケールの大きいシンフォニックなパートなんだ。ぼくはそこに歌詞をつける羽目になったが、そのおかげで三番目のヴァースを書く手がかりができた。リプライズとタグもできて、気づいたら いきなりこの壮大な曲が出来上がっていたと、そういうわけさ。
 これがあの曲ができるまでのあらましだ。もし「わかりました。ぼくが作詞をやります」とか言って、彼が何か送ってくれるのを待っていたら、まるっきり違う曲に とどまっていたかもしれない


 うんうんと頷きながら 読んでいるうち、バカラックコステロ二人の音楽が 頭の中で 鳴りはじめ、楽曲が構築されてゆく経過が見えるようで、思わず手に汗を握っていました。


♪ 本日の記事の参考文献 (引用した部分は青字で表記)
:バート・バカラック-自伝「ザ・ルック・オブ・ラヴ」
ロバート・グリーンフィールド共著(奥田祐士/訳)
シンコー・ミュージック・エンタテイメント

バート・バカラック自伝 ザ・ルック・オブ・ラヴ


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