ウクライナから こんなに多くの 偉大な音楽家が 輩出していたなんて・・・
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ウクライナから こんなに多くの
偉大な音楽家が 輩出していたなんて・・・

“スケルツォ倶楽部”発起人です。
平和に暮らす一般市民にとって、その共同体の日常生活と生存に危機をもたらす「戦争」ほど理不尽な脅威は無いでしょう。
2014年にウクライナ南部クリミア半島を併合してからも プーチンの ウクライナへの軍事侵攻は止まるところを知らず、先週すでにマリウポリでは ミサイル攻撃から市街戦となっています。首都キエフの陥落も時間の問題と伝えられます。
ゴルバチョフの盟友で、かつてペレストロイカ推進の中心人物の一人でもあった賢者アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフ(1923 – 2005)が、崩壊したソヴィエト連邦体制を 振り返って、その晩年に語ったとされる 含蓄深い発言 があります(以下 引用)。
今日、歴史を振り返ってみるとき、とても価値ある言葉だと思います。
いわく -
「20世紀とは 意味のない革命の世紀であった。
「社会主義国家ソ連を産んだロシア革命は 世界の人々に希望を与えたわけではない。
「ロシア革命は、ボリシェビキが暴力で権力を奪取するために起こした単なるクーデターで、革命とはいえない。ファシズムや かつての帝国日本の軍国主義と同様に 犯罪である。
「革命の父といわれるレーニンは、犯罪国家をつくったにすぎない。ソ連の誕生は、ファシズムと同様に 独裁体制の台頭の一つに過ぎない。
「歴史の厳しい目で見れば、ソ連という社会的実験が失敗し、多くの戦争で何千万人もの犠牲者を出し、(ロシアは)20世紀を丸々失ったともいえる」
(産経新聞2000年 8月 7日掲載「私が選んだ20世紀の十大ニュース」より引用 - 青字 -)

▲ ヤコヴレフ(左 )と プーチン大統領(2000年)
ソ連崩壊後も一貫して自由主義・民主主義側に立ち続けたヤコヴレフは、2005年モスクワで亡くなりますが、強権化してきたプーチン政権の行方を危惧し、シロヴィキ(強いロシア・ファースト的な国益優先の政治姿勢 )を最期まで批判する立場でした。

旧ソヴィエト時代から連邦を構成する重要な地域だったウクライナは、広大な農地を有する「欧州の穀倉地帯」とも呼ばれていました。
今も小麦の生産高は、ロシアと併せると世界全体の輸出量の三割をも占めているそうで、平和でさえあれば 春先には作付けされるべき小麦やトウモロコシの収穫に 今年は 大きな悪影響を及ぼすことは必至・・・。
EUや米国がロシアに科している経済制裁は ロシアのウクライナ侵攻を阻止することが目的でしたが、ここまで大規模に戦火が拡大してしまった今、プーチンを止める方法などあるのでしょうか。
市民への理不尽な攻撃はエスカレートする一方、幼い子どもを含む避難民の数も激増の一途です。
ファシスト、プーチンは「核兵器を使ってもいいんだぜ」的な恫喝までしてウクライナを脅していると・・・ は? 耳を疑う発言です。だって、そうなったら 地球環境全体がロシアの人質 ではありませんか。
気が狂った独裁者と その手下どもなど もはや「人類の敵」でしょう。安全/安楽な場所で ぬくぬくと自分自身が大量殺人者である自覚の欠片もなく、優越感に浸っているようです。
過去記事
ウクライナ侵攻の波及
⇒ 政治が芸術に結びつくと碌なことにならない
豊かな農業大国ウクライナと 何より世界の平和を祈念して、今日は 彼(か)の地に所縁(ゆかり)ある 偉大な音楽家の名前をご紹介します。
何しろ ちょこっと調べてみただけなのに ウクライナから 優れた音楽家が こんなにも 多く輩出していたなんて 知らなかった・・・ 正直 驚きでした。
彼ら若き才能の芽が もしかしたら明日の「リヒテル」や未来の「オイストラフ」であるにもかかわらず、今 まさに過酷な戦火の下、まだか弱く幼い身で 逃げまどっている姿を・・・ どうか想像してください。

ヴラディーミル・ド・パハマン(1848 – 1933)
ウクライナ出身のピアニスト。
欧米で活躍、特にショパン作品の演奏や個性的な演奏解釈で知られます。
オデッサ大学教授の父から音楽の手ほどきを受け、その後ウィーンに移住。ヨーゼフ・ダックスにピアノを師事、アントン・ブルックナーに音楽理論を学びました。
1869年オデッサでピアニストとしてデビューするも 自らの芸術を磨くために一時引退。イタリアで隠遁生活を送った後、1882年にピアニストとして復帰します。1906年からは、ヴェルテ=ミニョンのピアノ・ロールでの記録を開始、翌1907年から草創期グラモフォンのSP盤に多くの録音を残しました。
リサイタルやレコーディング中、演奏前や演奏の最中に 突然 注釈を加えるような独り言を呟くという奇癖でも有名。

レインゴリト・グリエール(1875 – 1956)
ウクライナ出身の作曲家(ロシア帝国末期からソ連建国期)。
ウクライナのキエフにドイツ人の父(楽器職人)とポーランド人の母(ピアニスト)との間に生まれました。モスクワ音楽院ではタネーエフ、アレンスキー、イッポリトフ=イヴァーノフらに作曲を師事。留学先のベルリンではオスカー・フリートに指揮法を師事。1920年以降はモスクワ音楽院で教鞭を執り、プロコフィエフやハチャトゥリアンら後進を育てました。
ロシア革命後も その作風は当時のモダニズムに傾斜することなく、後期ロマン派の手法にとどまりました。それがスターリン治下のソ連では 社会主義リアリズムの模範と見なされていたそうです。バレエ音楽「赤いけしの花」が有名ですが、親しみやすく美しい「ハープ協奏曲 変ホ長調」など 隠れた名曲も多いです 。
出身地ウクライナの首都キエフにあるキエフ高等音楽院の正式名称は、グリエールの功績を称え「グリエール記念キエフ国立高等音楽院」となっています。

セルゲイ・タルノフスキー(1882 – 1976)
ウクライナのキエフ出身、ロシア帝国のピアニスト、音楽教師。
ペテルブルク音楽院でアンナ・エシポワに師事、卒業時にアントン・ルビンシテイン賞を授与。オデッサに教師として赴任しますが、同地で共演したワシーリー・サフォーノフに絶賛され、その計らいでベルリン・フィルと3週間にわたって共演、続いてヨーロッパ諸都市で演奏旅行を行ないました。その後キエフ音楽院ピアノ科の教授に就任、11歳だったホロヴィッツの才能を見出したことで知られます。
1930年アメリカ合衆国に移住、3年後シカゴのディ・ポール大学附属音楽院教授となり、ナタン・ミルシテインやウィリアム・プリムローズらとも共演しました。

レオ・シロタ(1885 – 1965)
日本に所縁の深い、ウクライナ出身ユダヤ系ピアニスト。
5歳でピアノを始め、その素質をパデレフスキに認められます。キエフ音楽院、ペテルブルク音楽院で学び、1904年ウィーンに留学、ブゾーニに師事。
1928年に初来日し、その翌年から日本に移住、1944年まで東京音楽学校でピアノを教えました。教え子に 松谷穣、永井進、豊増昇、藤田晴子、園田高弘、尾高尚忠らの他、アナトリー・ヴェデルニコフがいます。
ベアテ・シロタ・ゴードン は実娘。

ゲンリヒ・ネイガウス(1888 – 1964)
ウクライナ出身のソ連ピアニスト、音楽教師 「ロシア・ピアノ楽派の開祖」
両親ともにピアノ教師でしたが、技能習得は ほとんど独学だったといいます。ドイツを中心に演奏活動を行い、ベルリンで レオポルト・ゴドフスキーに師事。ウィーン音楽院のマスタークラスにも参加しています。
エリザヴェトグラード、キエフで教鞭を執った後 教育活動へ専念するようになり、1922年モスクワ音楽院教授となり、1935年から1937年まで 同院長も務めました。後年シベリア追放という苦渋の時期も嘗めましたが 名誉回復により復帰、1956年にロシア人民芸術家に選ばれています。
その教え子は ヤコフ・ザーク、エミール・ギレリス、アナトリー・ヴェデルニコフ、スヴャトスラフ・リヒテル、ラドゥ・ルプー、アントン・ギンスブルクなど錚々たる顔ぶれ。スタニスラフ・ネイガウスは息子、スタニスラフ・ブーニンは孫にあたります。

セルゲイ・プロコフィエフ(1891 - 1953)
ウクライナ東部ドネツィク出身(旧ロシア帝国末期 ~ ソ連)の作曲家、ピアニスト
言うまでもなく、ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチらと並ぶ、20世紀の最重要な作曲家のひとりです。
交響曲 7曲、「ロメオとジュリエット」などに代表されるバレエ音楽、組曲「キージェ中尉」、ピアノ協奏曲 5曲、ヴァイオリン協奏曲 2曲、ピアノ・ソナタ 9曲、そして代名詞的な人気作「ピーターと狼」などで広く知られます。

ミハイル "ミッシャ" エルマン(1891 - 1967)
ミハイル・ゴルバチョフ? いいえ、エルマンです。ウクライナ、キエフ(タリノエ村)出身の名ヴァイオリニスト。
幼い頃からヴァイオリンに親しみ、ウクライナのオデッサ官立音楽学校に入学。サラサーテの推薦状を得て、ペテルブルク音楽院の入学審査では レオポルト・アウアーに認められ 入学資格を得ます。1904年ベルリンでのデビューは会場にセンセーションを巻き起こし、翌1905年にはロンドン・デビュー、1908年にはカーネギー・ホールでアメリカ・デビューを飾り、いずれも聴衆を圧倒したと伝えられています。
1911年に単身アメリカ合衆国へ移住しますが、ロシア革命を機に家族をアメリカに呼び寄せ、1923年に市民権を取得。その後も美音と情熱的な演奏スタイルを続け 生涯現役を貫きました。1967年4月5日、突然の心臓発作で倒れた朝も次回リサイタルに向け 練習中だったそうです。

ミエチスラフ・ホルショフスキ(1892 – 1993)
ウクライナ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国領)リヴィウ出身のピアニスト。
すでに 4歳頃からピアノの神童と呼ばれ、7歳の時にウィーンに移住、名教師レシェティツキの指導を受け、ヨーロッパ各地で演奏旅行を始めました。第二次世界大戦中アメリカに移り、1942年以降フィラデルフィアのカーティス音楽院で後進を指導しました(リチャード・グード、ピーター・ゼルキンなど)。
プラドに亡命中で演奏活動を自粛していたパブロ・カザルスの信頼を得て共演者となり、アレクサンダー・シュナイダーとともに 彼を表舞台へ連れ出しました。カザルスとは、ケネディ大統領のホワイトハウスコンサートでも伴奏を担当しています。他にヨーゼフ・シゲティやブダペスト弦楽四重奏団との共演による録音も多く残しています。
100歳になる直前まで公開演奏会を行ない、晩年まで注目されました。

シモン・バレル(1896 – 1951)
ウクライナ出身のユダヤ系ピアニスト。
ウクライナ、オデッサのユダヤ人の家庭生まれ。ペテルブルク音楽院でアンナ・エシポワに学んだ後、フェリックス・ブルーメンフェルトに師事。
伝説的な演奏速度と巧みな指捌きの凄腕ピアニストとして注目を浴び、卒業後から演奏活動に入るも当時のソ連政府から国外での演奏旅行が禁じられていました。1919年キエフ音楽院の教授に就任、1928年リガで文化大使、1932年ベルリン移住の翌年ヒトラーが権力を掌握したため スウェーデンを経由しアメリカ合衆国に移住、1951年 4月 2日カーネギーホールで(オーマンディ指揮/フィラデルフィア管弦楽団との共演で グリーグのピアノ協奏曲)演奏中に脳梗塞を起こし、急逝。

ウラディミール・ホロヴィッツ(1903 – 1989)
ウクライナ、キエフ生まれのユダヤ系アメリカ人ピアニスト
(但し出生地は 隣のジトーミル州、ベルディーチウ説もあり)。
1912年にキエフ音楽院に入学、卒業時にラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏して以後、ソ連国内から1926年以降は西欧へと演奏活動の幅を広げてゆき、1928年にはアメリカ・デビューを飾ります。やがて活動拠点を本格的にアメリカへと移し、1944年には市民権を取得。難易度の高い技巧を披露する個性的なテクニックで、世界的な人気を博しました。
健康上の理由で1953年から1965年までの間コンサート活動を一切キャンセルし、12年ぶりの活動再開リサイタルは「ヒストリック・リターン」として大いに話題になりました。その後 好不調の波はありつつも 自宅で急逝する 4日前まで演奏活動、レコーディングを精力的に こなし続けていました。
♪ 過去記事
⇒ ホロヴィッツのレコードとの出会いを回想

ナタン・ミルシテイン(1903 – 1992)
ウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。
11歳のときレオポルト・アウアーの招きでペテルブルク音楽院に入学。ロシア革命で1917年にアウアーがノルウェーに脱出してしまうとキエフに戻り、以降欧米への演奏旅行を始めます。1929年にレオポルド・ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団との共演でアメリカ・デビュー(1942年にアメリカ市民権を取得)。その後ニューヨークに居を構えるも たびたび渡欧し、ハイフェッツやオイストラフらと並び称される世界的な名声を得ました。EMIやDGなどにレコーディングも多く1968年にはレジオン・ドヌール勲章を受章。
89歳の誕生日を目前にしてイギリスで没しました。

ダヴィット・オイストラフ(1908 - 1974)
ウクライナ出身、ソ連のヴァイオリニスト。
ウクライナ、オデッサのユダヤ人商家生まれ。5歳からヴァイオリンとヴィオラを学びました。1923年からオデッサ音楽演劇学院に入学、1928年に卒業後、ソリストとしてレニングラードでデビュー。1935年に第二回全ソ連音楽コンクールで優勝、同年ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールで第2位、 二年後1937年、ブリュッセルのウジェーヌ・イザイ・コンクール(現エリザベート王妃国際音楽コンクール)で首位。
その後、モスクワ音楽院にて教鞭を執り、ギドン・クレーメルら多くの後進を育てるかたわら演奏活動も続け、その豊潤で美しい音色で世界的に名声を高めましたが1974年アムステルダムで演奏旅行中に急逝。

スヴャトスラフ・リヒテル(1915 – 1997)
今日ウクライナ領ジトーミル出身、20世紀最大のソ連のピアニストの一人。
ピアニスト/オルガニストで作曲家だった父からピアノの手ほどきを受け、1931年15歳でオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用、3年後19歳の時に初リサイタルを成功に収めました。1937年22歳でモスクワ音楽院に入学、ゲンリヒ・ネイガウスに師事。その後ネイガウスの紹介でセルゲイ・プロコフィエフと親交を持ち、ソ連国内で活発な演奏活動を行うようになります。1945年30歳で全ソ連音楽コンクール・ピアノ部門で第1位を受賞。
1950年以降、東欧で演奏するようになりますが、冷戦で対立していた西側諸国に出国して演奏をするにはソ連当局から許可が下りず、長い間「幻のピアニスト」扱いされていました。ようやく1960年以降は西側での演奏を許可され、その後は 名実共に20世紀を代表するヴィルトゥオーソとして世界を舞台に精力的な活動を続けましたが、1997年 モスクワで82年の生涯を閉じました。
♪ 過去記事
⇒ リヒテルを呪縛したカーネギーホールの「熱情」

エミール・ギレリス(1916 - 1985)
ウクライナ出身、ソ連のピアニスト。
ウクライナ、オデッサのユダヤ人家庭生まれ。両親は共に音楽家、5歳でオデッサ音楽演劇専門学校付属教室で学び、13歳でピアニストとしてデビュー。アルトゥール・ルービンシュタインに認められ、その勧めで1933年第一回全ソ連ピアノ・コンクールで優勝。その後モスクワ音楽院に入学し、ゲンリフ・ネイガウスに師事しました。
1947年からヨーロッパで演奏旅行を始めます。スターリン政権下において、基本的に西側諸国での活動は認められませんでしたが、1955年にはダヴィッド・オイストラフ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチらとともに西側での演奏旅行が許可されます。1952年以降はモスクワ音楽院で後進を育成しながら演奏活動を続けましたが、1985年モスクワで死去しました。
鋼鉄のタッチと称される完璧なテクニックと格調高い力強さが特徴でしたが、晩年には骨太な表現は鳴りを潜め 枯淡の境地とも言われる抑制の表現に変化しました。

アイザック・スターン(1920 - 2001)
ウクライナ生まれ、ユダヤ系アメリカ人ヴァイオリニスト。
ウクライナ(当時はポーランド領)のクレメネツに生まれるも、1歳2ヶ月でアメリカへ移住。サンフランシスコ音楽院に入学、16歳でモントゥー指揮/サンフランシスコ交響楽団と共演し、翌1937年にはニューヨークのカーネギー・ホールでソロ・デビューを果たしています。後進の擁護にも力を注ぎ、イツァーク・パールマン、ピンカス・ズーカーマン、シュロモ・ミンツ、ヨーヨー・マなどを育てました。戦後間もない時期から度々来日し 小澤征爾など日本人演奏家との親交でも知られます。
ユダヤ人としてイスラエルに強い共感を示し続けましたが、その晩年には 戦後長く訪れなかったドイツを訪問したり、中東和平を推進したイスラエルのバラク政権を支持したりと、政治的な活動には賛否が分かれました。

レオニード・コーガン(1924 - 1982)
ウクライナ出身、ソ連のヴァイオリニスト。
ウクライナのドニプロペトロウスク生まれ。アウアーの高弟ヤンポリスキーに手ほどきを受け モスクワ音楽院付属中央音楽学校に入学。1936年に訪露したジャック・ティボーとヨーゼフ・シゲティに、その速くて澄んだ音色のヴィブラートや緊張感の高い攻撃的で引き締まった演奏(いずれもコーガンの特長)を絶賛されています。本当に素晴らしいヴァイオリニストです。
1941年 モスクワ音楽院大ホールで、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団とブラームスのヴァイオリン協奏曲でデビュー、1943年からモスクワ音楽院に在籍。1951年には ブリュッセルのエリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝、その後ワールドツアーで欧米の主要都市で演奏、大成功を収めました。
1982年ウィーンでの演奏旅行を終えた直後、オーストリア-ロシア間を列車移動中に心臓発作を起こし、58歳で急逝。惜しい。
♪ 過去記事
⇒ 名曲の名演を一つだけ残すとしたら「クロイツェル・ソナタ」

ユリアン・シトコヴェツキー(1925 - 1958)
ウクライナのキエフ出身、ロシアのユダヤ系ヴァイオリニスト
8歳の時 訪ソ中のジャック・ティボーに演奏を激賞された神童。1945年には全ソ連青少年コンクールで優勝を飾り、1947年プラハのユース・フェスティヴァル・コンクールでは 名手レオニード・コーガンと同率一位を分け合いました。1952年には第2回ヴィエニャフスキ国際コンクールで第2位、1955年エリザベート王妃国際コンクールで第2位を獲得。翌1956年 肺癌を発病、演奏活動を休止し闘病生活に入りましたが それから僅か 2年後に モスクワで死去。

ニコライ・カプースチン(1937 – 2020)
ウクライナ(ドネツィク州)出身のロシアの作曲家、ピアニスト。
第二次大戦後、7歳でピアノを始め、14歳でモスクワ音楽院附属の音楽学校に入学。在学中にヴォイス・オブ・アメリカで聴いたジャズに興味を持ち始め、その後クラシックの手法とジャズのイディオムを融合した独自のスタイルで作曲を試みるようになります。
1961年モスクワ音楽院を卒業後1972年まで 国立ジャズ音楽室内管弦楽団の一員として演奏旅行。1977年までソビエト連邦放送軽音楽管弦楽団に、1984年までロシア国立映画交響楽団に所属。その後は作曲活動に専念、晩年にはペトロフ、アムラン、スティーヴン・オズボーンなど数多くの著名ピアニストに作品が取り上げられるようになったのを見とどけ、2020年にモスクワで亡くなりました。
ジャズの要素である即興性が封じ込められている楽譜をプレイヤーが開く度、演奏を通して 毎回その精神が新鮮に甦る、素晴らしいピアノ・ソナタ。でも不思議なことに、聴き比べると 他の誰よりも やっぱり作曲者自身のピアノ演奏が 常に最も眩しい高さまで翔んでいるように思えます・・・。

セルゲイ・エデルマン(1960 - )
ウクライナのリヴォフ生まれのピアニスト。
音楽教師だった父アレクサンダーから5歳の頃よりピアノの手ほどきを受けます。10歳でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏してオーケストラ・デビュー。以後、旧ソ連各地でリサイタルやオーケストラとの共演を重ねています。
1983年にエリザベート王妃国際コンクールで入賞。J.S.バッハ、ベートーヴェン、シューマンなどドイツ系の作品を得意とし、その後 演奏活動域をヨーロッパ、アメリカへと世界的に広げ、2009年以降には日本での演奏活動、レコーディングも行っています。
そう言えば 最近 活動の情報を聞きませんでしたが、どうされているのでしょうか。


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オデッサ国立歌劇場が 2022年オペラ・アワード年間賞を受賞
英国発の国際的なオペラ賞「オペラ・アワード」Opera Awards 2022-23 の年間賞「オペラ・カンパニー」に、ウクライナのオデッサとリヴィウの各国立歌劇場/バレエ団が選ばれました。ロシアによる武力侵攻後も困難を乗り越え「活動を続けている」ことが評価されたそうです。
この賞は 2012年創設、2023年で第10回となります。英国月刊誌「オペラ・マガジン」編集主幹ジョン・アリソンが審査委員長を務め、欧米の音楽批評家たちが選考委員を務めています。表彰式は11月28日、スペインのテアトロ・レアルにて。開催地が英国以外なのは初めてとのこと。
https://www.youtube.com/watch?v=gqar3X1EygM
Re: 奇跡の都 オデッサ
木曽のあばら屋さま、お久しぶりです!
コメントありがとうございます。そして私 発起人、モイセイヴィチを見落としていました、遺憾ですね。
ソ連が崩壊後から自由主義諸国を欺き続け、着々と“王国”を築いてしまった独裁者プーチン、ようやく世界はこやつの正体を思い知ったのでしょう。狂人が膨らませた危険な幻想の拡大を何が何でも阻止してもらいたいものです。
オデッサに音楽が栄えた経緯を調べてみたら、19世紀からヨーロッパとの貿易で栄え、特にイタリアと交流が深かったらしいですね。イタリアオペラは上流階級から庶民に至るまで大人気で、19世紀のロシア帝国におけるイタリアオペラの中心地はペテルブルクでもモスクワでもなく、オデッサだったのだそうです。これが背景にあったのですね、今 オデッサの歌劇場は大丈夫なのでしょうか・・・
奇跡の都 オデッサ
こんにちは。
ウクライナは多くの音楽家を輩出していますが、
とくにオデッサは奇跡の都ですね。
スビャトスラフ・リヒテル
ナタン・ミルシティン
エミール・ギレリス
シェーラ・チェルカスキー
ダヴィッド・オイストラフ
シモン・バレール
マリヤ・グリンベルク
ベンノ・モイセイヴィチ
みなオデッサ生まれです。
いったいオデッサに何があるんだ・・・?
とにかくクラシック音楽ファンはオデッサに足を向けて寝られません。
ウクライナの、そしてオデッサの音楽文化が守られますように!
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