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舞台監督ハリー・クプファー逝く - 
1978バイロイト「さまよえるオランダ人」(ワーグナー)が
オペラを「読み替え 」る「演出の時代 」を 決定づけた。

ハリー・クプファー ハリー・クプファー ハリー・クプファー Harry Kupfer

 こんばんは、“スケルツォ倶楽部発起人です。
 昨年末(12月30日 )、演出家ハリー・クプファー Harry Kupfer(1935~2019 ) が逝去していたことを、年も明けてから 今頃になってようやく知りました。
 なにしろクプファーは、まだつい数年前 わが国の新国立劇場におけるワーグナー「パルジファル 」上演に際し 来日して演出を手がけた(・・・という伝聞のみ、発起人は 舞台を観ておりません )ばかりだったため、まだまだ元気に世界のオペラハウスを飛びまわっていたという印象があり、すでに80歳を超えた高齢の身だったことなど意識にありませんでした。謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます。

 私“スケルツォ倶楽部発起人が 個人的に印象深く記憶に残っているハリー・クプファーの仕事と言えば、やはり1978年バイロイトに於ける「さまよえるオランダ人」の画期的な「読み替え 」演出に尽きます。
 それは「読み替え」演出史の“古典”とも呼べる深い洞察を孕んだ、実に素晴らしい内容でした。

 2013年にパトリス・シェローが亡くなった時、その追悼記事中で 述べたことと 一部重複しますが、まだ70年代初頭には“異端”とみなされていた、オペラにおける「読み替え演出を ある意味「解禁 」したのが ワーグナーの総本山たるバイロイト、それも 同音楽祭創立100周年という重要な記念年の「指環 」新演出を任せた パトリス・シェローの起用だったと断言できます。これが、その後の世界のオペラ演出史に与えた影響の大きさといったら、メガトン級の破壊力がありました。
 未読の方は こちら ⇒ シェロー 1976年バイロイト「指環 」 (ワーグナー ) にみる「読み替え 」演出の功罪

 “禁断のパンドラの箱”を開けてみせた シェローの「指環 」に続けとばかりに、翌々年1978年に起用されたのが、ハリー・クプファー演出による斬新な「さまよえるオランダ人 」でした。
クプファー演出 オランダ人-10

 私 発起人、小学生にして音楽を聴くという悦楽に捕らわれて以来、中学に進んで以降さらに この症状は重篤化しw いつも年末に近づくと 自室に閉じこもっては NHK-FMにかじりついては その年のバイロイト音楽祭の放送録音を通し ワーグナーの音楽に じっと耳を傾ける習慣となっていました。
 その年 - 高校に進学してから最初の冬休み - も 同じように、対訳も持たず、唯一音楽之友社の「名曲解説全集 」に書かれたプロットと僅かな譜例だけを頼りに「ラインの黄金」から「神々の黄昏」までを じーっと傾聴し続けていました。
 その年は 新演出だという歌劇「オランダ人 」放送の前後、番組の解説を務めておられた作曲家 柴田南雄氏の対談相手 - どなただったか、もはや名前さえ忘れましたが - は、その放送の半年前に 現地バイロイトで舞台を観てきたという人物でした。今とは異なり、視覚情報が極端に少ない不便だった70年代のこと、貴重な「目撃者」であるその人物の「証言」から、勝手に想像を巡らすことしかできず、それが まだ高校生だった自分にできることのすべてでもありました。

 クプファー(という名前も その時初めて耳にしました。当時は Kupferが “クップファー”と発音されていましたっけ )による「オランダ人」の舞台を観てきた「」が、その特殊な演出について かなり興奮しながら語っていたことを 鮮明に記憶しています。それは「とにかく普通の演出とは異なる 」、「あり得ない奇怪な解釈と舞台装置 」で、「聴衆も賛否両論に分かれていた 」という「証言 」でした。
 何しろ ドラマのエンディングで、主人公たるオランダ人は 救済されることなく(?)、再び絶望の航海へと船出してしまい、残されたヒロインたるゼンタが愛を誓いつつ己が身を投げるのも 岬から海中へではなく、何とアパートの二階の窓からで( ! )彼女が無駄に転落死を遂げたところで幕が下りる、という衝撃の説明に、聞き手の柴田南雄氏さえ驚きの声を上げていたことを憶えています。本家たる バイロイト祝祭劇場で、果たしてワーグナーの台本に従わない、そんな演出って あり得るだろうか・・・ 想像もつかぬ舞台の様子を語る「目撃者の証言」に、まだ高校生だった私 発起人、乏しいイマジネーションを駆使すれど遠く及ばず、ただ解説を聞きながら 頭の中をイメージの全力疾走を させるだけで いっぱいいっぱいでした。

 そんなクプファー演出「オランダ人」の舞台を、シェローによる「指環」と同じくらい、いえ それ以上に、いつか観てみたい、という強い想いは 文字どおり わが胸を焦がすほどでした。ああー、一体どんな舞台だったんだろ?

 ・・・ それから 何と10年以上も経って - 社会人になって - からのことでした、クプファー演出による この舞台を ようやく レーザーディスクw で 観れるようになったのは - 。
 それは 想像していたとおり、驚きの「読み替え」演出でした。衝撃は、想像を超えていました。同時に、正直 これはもっと早く、リアルタイムで観ておくべき内容だったと悔やまれました・・・ と言っても どうしようもなかったけれど。
さまよえるオランダ人 レーザーディスクの表紙 ウォルデマール・ネルソン Woldemar Nelsson 
▲ (左から )フィリップス盤 レーザーディスクの表紙、ウォルデマール・ネルソン Woldemar Nelsson

 その映像に収められた公演の指揮者は、私 発起人 が高校生の頃 初めてFM放送で聴いた年のデニス・ラッセル=デイヴィスではなく ウォルデマール・ネルソン という人に代わっていました (ちなみに デイヴィスは、この初年度と翌1979年、および1980年までの三年間、クプファー演出の「オランダ人」上演に限って バイロイトのピットに入ったという記録があります )。キャスト1985年上演の顔ぶれでしたが、主要な配役に関しては、初年度とほとんど同じ歌手が務めています(初年度の舵取は、若き日のフランシスコ・アライザが務めていました )。

クプファー演出 オランダ人-01
 冒頭から、すでに クプファー演出が 異様な舞台を用意していたことが判ります。
 激しい暴風と波を描写する序曲が始まると同時に ステージの幕が早々に上がると 舞台は、意表を突いて、海でも船上でもありませんでした。そこは 明らかに陸の上の建物内で、船長ダーラント の娘 ゼンタリーズベト・バルズレフ )が属する 薄暗い紡績工場のような場所、老若女性ばかりの共同体です。ゼンタの乳母でもある初老のマリーアニー・シュレム )が、この集団を仕切っているようです。

 その中でも 独りだけ とりわけ幼ない、まるで不思議な国のアリスのような 可愛らしい水色の衣装に 身を包んだ少女ゼンタが、この女性たちの中で 一際浮いた存在であることが示されます。正直 この年のリーズベト・バルズレフ が 「少女 」を演じることには 実は 少なからず痛々しさを感じなくもないのですが、そこは やむを得ないでしょう。
クプファー演出 「オランダ人」ゼンタ(リーズベト・バルズレフ ) アリス Motion Picture Alice in Wonderland Sound Track LP (1968) Disneyland Record 1208 アリス 映画 不思議な国のアリス
▲ (左から )ゼンタリーズベト・バルズレフ )、「不思議な国のアリス 」(ディズニー・オリジナル サントラ盤表紙 )、映画「アリス・イン・ワンダーランド 」(2010年 )のミア・ワシコウスカ、いずれもコスチュームに ご注目。

 序曲が始まって間もなく、FM放送を聴くだけだった頃には雷鳴だと思い込んでいた ひとつの衝撃音が、映像を観ることによって、それが壁に架かっていたオランダ人の肖像画が落下した音だったと 初めて判りました。
 あわてて駆け寄ると その画を拾い上げ、大事そうに胸に抱えると 少女ゼンタは 舞台下手に設えられた 二階の窓へと繋がる螺旋状の階段を駆け上がります。

 そこから外へ開いた窓からは、海からの突風が吹き込んでいます。千切れるほど激しくはためくカーテンでそれとわかります。オーケストラが一瞬全休止するタイミングに合わせて、ぴしゃりと ゼンタは その窓を閉めるのです。
 この「窓を閉める 」という動作は、さりげなくも重要で、それは まさに ここから 彼女だけの「物語 」が始まる ことを 象徴しています。オペラの最初から最後まで、歌うパートがない時でも 少女は ステージ下手の位置から殆ど動くことなく、常に舞台上に居続けます。その理由とは、これから繰り広げられるドラマの主人公が、このクプファー演出に限っては、オランダ人ではなく 既に登場している少女ゼンタであるからです。

 序曲が終わるやいなや、まるでキュビスム絵画のように 舞台装置がシュールに転換します。このステージの変換は 素晴らしいです。
クプファー演出 オランダ人-5
 一瞬で三方の壁が外れて上空へ浮き上がり、どっと押し寄せてくる嵐の海水は みるみる足元を浸してゆきます。ゼンタは 安全な非常階段の踊り場に避難w しています。

オランダ人 ダーラント(マッティ・サルミネン )
 ゼンタは、航海に出ている パパ・ダーラント(マッティ・サルミネン )船長を務める船が暴風で沖に流され、そこで彼女が憧れる幽霊船のオランダ人と出会う場面を「想像 」するわけですが、その船の不思議な外観が これです。
クプファー演出 オランダ人-6
 明らかに 閉ざされた「両手 」が 何かを覆い隠している形ですよね。普段は「目に触れてはいけないもの 」を隠しているように見えます。

 少女ゼンタが 思慕の対象とするオランダ人が、この舞台装置の奥に縛りつけられています。呪われたオランダ人は、幽霊船で海上を永遠にさまよう運命で、上陸が許されるのは七年にたった一度だけ。その機会に 生涯の貞節を誓う女性と出会えなければ、運命の拘束が解かれることもないという絶望的な呪いがかけられています。かくも不幸な境遇の男を 救えるのは 自分を措いて他にないと、むしろ彼女は オランダ人の船が到来する日を 自己陶酔的に待ち望んでいるのです。

 「隠されていたもの 」を覆っていた「両手」が徐々に開くと、その驚くべき姿が露わになります。
クプファー演出 オランダ人-7 クプファー演出 オランダ人
 これって・・・ 女性の性器ではないでしょうか。舳(船首部)もクリトリスそのものではありませんか。
 バイロイトクプファーが 歌劇「オランダ人 」を演出していた間、一貫してタイトルロールを演じ続けたサイモン・エステスが、体格の良いアフリカ系アメリカ人であったことも偶然ではないと思います。この「オランダ人 」が、青ざめた顔色の北欧人ではなく「黒く逞しい男性 」であることが、クプファー演出では 深層心理的に 何の象徴 であったか、敢えて口に出すことは自粛しますが、処女ゼンタが、思春期の想像の世界に秘して待ち続けている「もの」が、とりあえず「オランダ人 」という人格を借りて 象徴されています。

 幼い彼女は、自分のイマジネーション世界で、パパオランダ人を“わたしの花婿”として選び、一緒に連れて帰ってきてくれることを夢想して 無邪気に喜んでいます。「財宝に目が眩んで 娘を男に差し出すパパ 」という、この あまりにも安易な展開は、若きワーグナーの書いた台本が抱える弱点でしたが、逆にクプファー演出の下では、世間知らずの女子が考える 現実感の乏しい想像という設定に ひとつの説得力を与えていることは、驚くべきことです!
クプファー演出 オランダ人-4

 では猟師エリックローベルト・シュンク )の存在とは? 彼は、背広を着た良識ある市民階級の服装で現れ、精神を病んだゼンタの存在を認めつつ 彼女を現実の世界へ引き戻そうと必死に努めます。ゼンタの側からみると、彼女の夢想世界を真っ向から否定する存在と考えて 間違いないでしょう。二人は かつては愛し合ったこともあったようですが、少なくとも今は 疎ましく思われているようです、かわいそうに。
クプファー演出 オランダ人 エリック
 ここもまたワーグナー台本の弱点なのですが、猟師エリックゼンタと婚約していたという事実は、ひとつの矛盾です。ドラマの大詰めで、たしかにゼンタオランダ人に貞節を誓うものの、過去エリックと婚約していたことを否定はしていません。パパ・ダーラントが財宝に目が眩んで異国の花婿を連れて帰ってくる以前、果たして彼女とエリックが いかなる関係にあったか、最後まで 具体的にされていないのです。

 第2幕で、パパ・ダーラントは 現実に 外国人の男を 娘の「 」として連れ帰ってくるわけですが、クプファー演出では それがまるで影のような「カオナシ 」な存在として扱われ、ゼンタの視界に まったく入っていないことを暗示します。花婿候補の「カオナシ 」には舞台上では決して照明も当たらず、それは巧みな効果です。音楽もここでワーグナーは 何故か不自然な間(ま )を何度も空けているのですが、それがクプファー演出に使われると、驚くほど意味を持って 行間を語り始めます。
クプファー演出 オランダ人-15 カオナシ(千と千尋の神隠し )
 もちろん「カオナシ 」が 「オランダ人」のパートを 歌うなど 決してあり得ません。
 このシーンで ゼンタ二重唱を歌うのは、実際に舞台の背景に忽然と現われる 彼女の幻想世界の中に棲む オランダ人なのです。
クプファー演出 オランダ人-14 クプファー演出 ゼンタとオランダ人
 この場面の特異な装置(大道具 )によって、遂にオランダ人棲んでいる世界が 一体どこであるのか(大人なら誰にも )明白となります。これは、女性の子宮そのものではありませんか。頭上に細長く伸びている管も女性の生殖口でしょう。すなわち「さまよえるオランダ人 」とは、少女ゼンタ子宮の中にしか存在しない、彼女の想像の産物であることが視覚的にも表現されます。ゼンタは、自身の内面深くに潜んでいる存在と 愛の二重唱を歌っていたのです。
クプファー演出 オランダ人-クライマックス
 そんなオランダ人は 遂に自分が救済されることを信じ、強くゼンタを励まします(って、それも少女の空想というわけです )。二重唱も絶頂に至ると 「子宮 」内膜は まるで充血するように赤く光り輝き、エクスタシーへと達した少女の高揚感と興奮とを表します。
 ゼンタは、自分の夢想の中に棲むオランダ人との結婚を承諾して頷くわけですが、舞台をみまもる私たち聴衆は 現実世界に立っている「カオナシ」との婚姻を彼女が受諾したようにもみえることに首をひねるのです。
オランダ人 ゼンタク(リーズベト・バルズレフ )
 少女ゼンタも ここで現実と幻想の境界線が見えなくなったのでしょうか、階段の途中で意識を失います。
 この場に続く 有名な水夫の合唱は、完全にゼンタの夢想の世界として扱われています。ここでは 彼女のパパの船で働く現実の水夫たちは、一切登場していません。賑やかな合唱であるにもかかわらず、白装束の男女らの異様に静けさを湛えた雰囲気はあまりにも不気味で、オランダ船の姿をみせない幽霊の水夫らの存在よりも怖いです。
クプファー演出 オランダ人 クプファー演出 オランダ人-18

 そして、いよいよクライマックスが。
 エリックは 必死にゼンタの妄動を止めようと、かつて二人が交わした「永遠の貞節」という言葉を使います。ダーランドから 一度は娘を託されたと信じるエリックは、切々とゼンタに 己が心情を訴えます。
クプファー演出 オランダ人-19
 かみ合わない口論を続ける二人、「ああ、こんなところを “あの人” に見られちゃったら どうしよう 」と、少女が頭の片隅で心配したに違いありません。はい、ご想像のとおり ここで即座にオランダ人の船が 舞台の背景に現われました。もちろんゼンタの心象風景です。
 濡れた秘部が開き、再び姿をみせるオランダ人。何と、自分と出会う以前から すでに「貞節 」を誓った相手がいたことを知って 絶望したオランダ人は、再び 自ら鎖につながれて、「貞節も救済もこれまでだ 」と、ゼンタに別れを告げようとします。そしてローエングリンが名乗るように オランダ人も また自身の正体を ドラマティックに明かします。
 しかしゼンタは、本人から教わるまでもなく すでに彼の正体を知っているのです、だって これはもともと すべてが 彼女の妄想ですから。

 エリックには、ゼンタオランダ人(当然 彼の目には見えない ) と交わす会話が理解できず、周囲に助けを求めます。呼応して街中の人々が集まってくる中、ゼンタは 岬まで一気に駈けのぼり、その突端に佇むと 崖の上からオランダ船に向かって叫びます。「死に至るまで、わたしは貴方に貞節を誓う ! 」と、大見得を切るや否や その身を 海へと躍らせ ―

 ・・・が、現実(そこ )は 岬でもなく 海の上でもなく、開幕冒頭「序曲」で 彼女が閉ざした螺旋階段の窓なのでした。少女の身体は、開け放たれた窓の外へ 空しく 落下してゆきます。
アリス CorneliaGillmann_Falling Down the Hole Alice in wonderland
▲ 連想イメージ Cornelia Gillmann_Falling Down the Hole Alice in wonderland

 一瞬の暗転から 場面は 初めて屋外へ・・・。すでに ゼンタの世界ではありません。

 路上に叩きつけられ 即死している少女の姿が ― 。

 オランダ船など 影も形もありません。だって、ここまでのドラマは 全部 彼女の妄想だったのですから。

 街の人々は 呪われた遺骸に背を向けると 誰もが足早に、まるで何も見なかったかのように、去ってゆきます。

 彼女を 正気に目覚めさせようと必死に戦ったものの すべてが徒労に終わったエリック独り、誰もいなくなった周囲を見回しながら 呆然自失な表情で立ちすくんでいると - 
 
 周囲の建物住居の窓という窓が 一斉に 音を立てて閉められます。それは、ひとつの共同体から 一人の女性の存在そのものが 閉め出されたかのように。

 ワーグナーの音楽が鳴り止む最後の二つの和音に合わせ、並び立つ建物の複数の窓を閉める音だけが 劇場内に残響する効果は、実にショッキングでした。
クプファー演出 オランダ人 ラストシーン

 「読み替え」演出の“古典”と讃えられるべきハリー・クプファーの 凄まじい「オランダ人 」を観て、私 “スケルツォ倶楽部発起人が大きく感動した点のひとつは、音楽と演出との意外な整合性でした。
 オペラの終幕、出航してしまうオランダ船を追って ゼンタは異邦人への愛を叫びながら海中に身を投げます。オリジナルでは、このゼンタ自己犠牲によって オランダ人の魂は救済され ドラマも終わるわけですが、オランダ人船長の存在を ゼンタの妄想として扱ったクプファー演出では、本来歌劇のエンディングでオーケストラに登場する「救済」の動機が聴こえてきませんでした。
 妄想に過ぎない以上「救済」もないわけですから、逆に あの柔和な管楽器による美しいモティーフが鳴ってしまっては、クプファーにとって 甚だ具合がよくないことになります。
 ちなみに、これは「序曲」の終結部にも呼応しています。序曲もそのコーダで、歌劇のエンディングと同様「救済」の動機が聴かれるべきところ、わざわざ省かれていることに 私は気づきました。

 何も知らずに 初めて 音だけをFM放送で聴いた時、私は クプファーが 自己の演出に合わせて、「救済」の動機も 意図的にカットしてしまったのだろうと勝手に思い込み、それゆえ最初は あまり好意的に受けとめていませんでした。しかし、実は そうではなかったのです。
 調べてみると、ワーグナーは、この歌劇「さまよえるオランダ人 」初稿を 1841年にパリで完成させた後、ドレスデンでの初演(1843年)、ベルリンでの再演(1844年)、ライプツィヒでの上演(1846年)、チューリヒでの上演(1852年)、そしてワイマールでの上演(1853年)と、その都度 総譜に 少しずつ手を加え続けてきました。
 それらは、オーケストレーションの微調整が大部分を占めていましたが、1860年パリでの演奏会に際し、ワーグナー序曲終結部を 大幅に改訂します。それが、今日一般に演奏されている ハープの彩りを伴った「救済の動機 」で締めくくられる、広く聴かれる標準的な版なのです。
 「救済」の動機が最後に登場することにより、縛られていたオランダ人の呪いを 少女 ゼンタの自己犠牲が解いたとされる結末を よりわかりやすく暗示することとなりました。そんな序曲終わらせ方が オペラの結末にも適用されることとなり、総譜の終結部も これに合わせて改訂が施されました - そうです、「救済」の動機がエンディングにも聴かれるようになったのは、ワーグナーが最初に作曲してから 20年も経ってからのこと、それは、後期の作風「トリスタンとイゾルデ 」という傑作を書上げ、円熟した作曲者が 後から加えたアイディアだったのです。
 シェローの「指環 」から 二年後、バイロイトに招かれたクプファー歌劇「オランダ人 」の大胆な「読み替え」演出を施すに際し、題材としたドラマ進行音楽との整合性を 十分に検討し、敢えてオペラの序曲終結部には、ワーグナーが手直しを加える前のオリジナルな「原典版 」を探し当てたのでした。「救済 」の動機は、決して 演出家が恣意的に削ったわけではなかったのです。
 
 このように、たとえば「オランダ人 」とは このようなオペラです - などと、したり顔で解説できるような既存の思い込みを 一切捨てることによって、初めて 別の視点から見直すことができるのです。偉大なクプファーの功績は、今まで隠れて気づかなかった ドラマの本質登場人物の知られざる本性を 舞台に引きずり出し、私たち聴衆に晒(さら )してくれたことにあります。その後、ヨーロッパを中心に主流となる、オペラのいわゆる「読み替え演出ですが、1970年代にして これほど高い説得力を持ち得た舞台を すでに創造していたことは、絶賛に値すると思います。私たちは、彼から 実に多くのものを 学びました。
(左から)クプファー、ラッセル=デイヴィス、エステス(1978、バイロイト)
▲ (左から )クプファー、初年度の指揮者ラッセル=デイヴィス、「オランダ人」役 サイモン・エステス(1978、バイロイト

ワーグナー
歌劇「さまよえるオランダ人 」(クプファー演出)
バイロイト音楽祭 1978年度スタッフと全キャスト

クプファー演出 オランダ人(2) 1978 クプファー演出 オランダ人 1978
公演日: 7/25、8/03、8/07、8/13、8/17、8/26

デニス・ラッセル=デイヴィス 1978 ハリー・クプファー 1978 ペーター・シコラ 1978
▲ (左から )指揮:デニス・ラッセル=デイヴィス、演出:ハリー・クプファー、ステージ・デザイン:ペーター・シコラ

ラインハルト・ハインリヒ 1978 ノルベルト・バラッチュ(画像は1990)
▲ (左から )コスチューム:ラインハルト・ハインリヒ、合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ(画像は1990年 )

サイモン・エステス 1978 リザベート・バルズレフ 1978 マッティ・サルミネン 1978 
▲ (左から )オランダ人:サイモン・エステス、ゼンタ:リーズベト・バルズレフ、ダーラント:マッティ・サルミネン

ローベルト・シュンク 1978 アニー・シュレム 1978 フランシスコ・アライザ 1978  
▲(左から )エリック:ローベルト・シュンク、乳母マリー:アニー・シュレム、舵取:フランシスコ・アライザ
♪ 資料の出典:公式バイロイト音楽祭(1978年)
主要スタッフと1978年当時のキャスト画像の一部は、NPO法人 龍ヶ崎ゲヴァントハウスカラヤニストのコンサート漫遊記さんのご厚意で お借りしました。ありがとうございます。


ハリー・クプファー Harry kupfer (2) ハリー・クプファー Harry kupfer
ハリー・クプファーのことば
 ― 「作品の何が時代との接点を持つか、何が観る者の琴線に触れるかは、時代や社会によって変化するのです。だから、私たちは作品に対して常に新たな姿勢で向き合う必要があります。また、優れた作品は、繰り返し、その時々の現実と新しい関係を切り結んでいくものです。だからこそ、作品はたえず新たに「読み直」され、新たな解釈が試みられなければならないと思っています 」
新国立劇場 2014/15 シーズン「パルジファル」公演サイトに収録されているコラムハリー・クプファー 名演出家の視点とその魅力 」(森岡実穂 )文中に引用された、2007年「トリスタンとイゾルデ 」来日公演プログラムより )

ヴァルター・フェルゼンシュタイン Walter Felsenstein
ハリー・クプファーに、多大な影響を与えた「ムジークテアター 」の巨匠
ヴァルター・フェルゼンシュタイン のことば
 ― 「オペラが演出の時代になって最も危険なことは、必ずしも作品本来の姿を舞台に表現しようとする演出者ばかりでなくなってくることだ。そうした演出者は『文字どおり受け取る 』困難さを避け、奇をてらった解釈や中身をそっちのけで、包装紙ばかりを飾りたて、具象化の物珍しさばかり多い、オペラを“見世物”にしてしまう。すると総譜に書き込まれた作品本来の姿を知らない批評家が、派手な包装紙に目を奪われ、これぞ新しい解釈、革新的な演出などと無責任な印象批評を書きたてる。その作品を見ていない読者は、その記事を信じてしまうから怖いのだ 」

クプファーとバレンボイム(於バイロイト )  
バレンボイム(右 )と打合せするクプファー

 ・・・ ところで、今回 ハリー・クプファーバイオグラフィを確認していたら、なんと 私 “スケルツォ倶楽部発起人が偏愛する ブリテン歌劇「ねじの回転 」( ! )を2002年ベルリン・コーミッシェ・オーパー首席演出家としての最後の作品として選び、演出を手がけた - との記録をみつけました。
 クプファーの「ねじの回転 」ですって・・・ うーん、是非 これは、強烈に 観てみたかった !
 実は、当時予算の都合で コーラスを伴わない小規模の舞台にせざるを得なかった - との裏事情があったそうですが、たいへん興味深い記録です。ああー、一体どんな舞台だったんだろ?

 
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