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ワーグナーの劇的な前半生 ⇒ もくじ
スケルツォ倶楽部_ワーグナーの劇的な前半生

交響曲(第一番 )ハ長調 WWV.29 
若杉 弘/ 東京都交響楽団(DENON)盤で聴く。



 “スケルツォ倶楽部発起人です。
 今年の 8月は 殆どワーグナーばかり聴いて過ごしていました。あらためて彼の偉業に触れ、つくづく物凄い人だったと思い知らされ、タメ息をついてます。
 大体音楽史に名を残すほどの人たちは皆、J.S.バッハモーツァルトも、桁外れな天賦の才を生涯燃やした偉人ばかりですけど、中でもリヒャルト・ワーグナーほど 超人的に自己の芸術に懸けるエネルギーの熱量が大きかった人も稀でしょう。

 さて、この後 果たして何回ほどの連載になるか不明ですが、しばらく 私自身の覚え書きとして、演奏会で聴ける機会の少ない稀少な楽曲の音盤レヴューを兼ね、その多忙を極めた凄まじいワーグナーの半生を 駆け足で振りかえろうと思います。
若きリヒャルト・ワーグナー ワーグナーの肖像 ワーグナーの画像

 リヒャルト・ワーグナーは、1813年、当時のザクセン王国ライプツィヒ生まれ。戸籍上の父で下級官吏だったカール・フリードリヒ・ワーグナーは、リヒャルトが生まれて半年後に亡くなっています。

ワーグナーの生母 ルートヴィヒ・ガイヤー
▲ 生母ヨハンナ、継父(実父?)ルートヴィヒ・ガイヤー  
 母ヨハンナは、以前から家族ぐるみで親しかった 宮廷劇場の俳優で画家でもあったルートヴィヒ・ガイヤーと速攻で再婚しますが、幼少のワーグナーが 舞台芸術に縁の深かった継父から多くの影響を受けたことは間違いなく、劇作家や演出家としての才能にも溢れていたガイヤーのことを ワーグナー自身「実父 」と信じていたことを窺わせる手紙や文章を書き残しています(ヴェネツィア日記 )。
 
 たくさんの兄弟姉妹がいる音楽好きの大家族の中で、少年ワーグナーは 正式に音楽を習う前からすでに自己流でピアノを叩いていました。
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 こんな逸話があります。 8歳の年、「父」ガイヤーが胸膜水腫で瀕死の病床にあった隣の部屋のピアノで ワーグナー少年、その年に初演されたばかりだったウェーバーの「魔弾の射手 」から「花嫁の冠 」のメロディを覚えてきて、自分で自由にアレンジして聴かせました。その翌日 亡くなることとなる「父」は 最後に「あの子には音楽の才能があるようだね 」と家族に言い残したそうです。
 
 その「父」の死後、少年ワーグナーは、宗教改革のマルティン・ルターの街として知られるアイスレーベンのキリスト教系の私立学校からドレスデンの名門校クロイツ(聖十字架 )中学校へ転校しますが、この時期キリスト教とその文化について深く学んだことは、ドレスデン近郊エルベ河畔の美しい森林ラベ川の風景から自然を愛する心が育まれたことと同様、後年の創作活動に大きく反映したことは間違いないでしょう。
ワーグナー パルジファル DECCA Wagner Siegfried_ PHILIPS

 もうひとつ少年ワーグナーに絶大な影響を与えた存在は、当時ドレスデンの宮廷歌劇場の指揮者、「魔弾の射手」の作曲者で 亡き「父」ガイヤーとも親交があった、ウェーバー(1786-1826 )でした。
 映画化されたピーター・シェーファーの「アマデウス 」でも描かれたとおり「当時のドイツの歌劇界は 一般的にはなおイタリア歌劇の支配下にあり、ドレスデンにもイタリア歌劇団が存在していて、民族意識に基づくドイツ国民歌劇創造の意欲をもつウェーバーは とかく白眼視され髙木卓 ) 」 ていました。が、少年ワーグナーにとって、ドイツ国民歌劇を確立した「魔弾の射手」は、熱狂の対象となる お気に入り作品で、クロイツ中学の友人たちと「狼谷の場面 」を自ら演出し、カスパル役を演じたほどだった、と自叙伝にも書いています。
 ウェーバー ウェーバー 魔弾の射手 クライバー(D.G.)盤
 ウェーバーは指揮法の改革者でもあり、今日では当たり前の 一人の指揮者が指揮棒を振って オーケストラと舞台上の歌手の両方を掌握するという指揮法は 当時まだめずらしく、後年のワーグナーに多大な影響をおよぼしたとされます。

 ワーグナーの作曲技法の習得は、18歳の時にライプツィヒ大学を中退した頃 出会った 聖トーマス教会のカントルだったテオドール・ヴァインリヒ Christian Theodor Weinlig(1780-1842 ) に専門的な指導を受けるまでは、殆ど独学だったようです。
 いえ、正確には 若き日にも ピアノはフーマンに、ヴァイオリンはジップに、楽理もミュラーに師事したものの、基礎的な練習を繰り返したり 和声の演習を積み重ねることを彼は嫌がったので、結局長続きしませんでした。にもかかわらず、フリードリヒ・ヴィーククララ・シューマンの父 )から 自主的にJ.B.ロジェの「通奏低音法」を借りてきたり・・・
Haydn_portrait_by_Thomas_Hardy_(Public Domain) Wolfgang Amadeus Mozart(スケルツォ倶楽部 ) Beethoven_部分_Joseph Karl Stieler、1820
 ・・・ハイドン弦楽四重奏曲の楽譜を 主体的に研究しているうち、歌劇の総譜をすらすら読めるようになってしまいます。そしてモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ 」のスコアから じかに管弦楽法を学び取り、まだ当時は演奏不可能な難曲と思われていた ベートーヴェン第九を 総譜から写し取ってピアノ独奏用に編曲してしまったのも 17歳(1830年 )の頃でした。
ベートーヴェン(ワーグナー編曲)交響曲第9番 合唱
ワーグナー編曲による第九(ピアノ独奏版 )小川典子(ピアノ )鈴木雅明/指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン(BIS)

 初めて人前で演奏されたワーグナーの管弦楽作品もまた 同じ年のクリスマス、宮廷劇場でのこと。序曲「太鼓連打」ニ長調 - 全曲を通じてティンパニ・ソロが四小節ごとに執拗な繰り返しを行うという意欲的な作品でしたが、その珍しさに聴衆から大いに失笑を買ったとされ、ワーグナー自身も「ナンセンスのきわみだった素描の自叙伝 ) 」と、自虐的に述懐しています。たいへん興味深い試作品ですが 楽譜は紛失しており、残念ながら 私たちに聴くことは許されません。

 ワーグナー最初の刊行楽譜として販売された「作品1 」は、ピアノ・ソナタ 変ロ長調、初期のベートーヴェンを思わせる作風です。この他にも数曲の作品が、恩師ヴァインリヒの世話によって 1832年 ブライトコップフ社から出版されました。

▲ こちらでお聴きになれます。
Richard Wagner - Piano Sonata in B flat Op.1 WWV 21

ワーグナーの師 ヴァインリヒ Christian-Theodor-Weinlig
ワーグナーの恩師、テオドール・ヴァインリヒ Christian Theodor Weinlig
 名教師ヴァインリヒの許で楽理を修業したのは、ワーグナーが18歳から19歳までの 正味半年ほどだったようですが、もともと備わっていた楽才は 根気よく親身な指導によって 大進歩を遂げ、基礎から徹底的に勉強し直した成果も目覚ましく、もはや「どんな対位法の難問もらくらくと解けるようになり 」それはまるで「優れた伯楽によって悍馬を駿馬へとみごとに調教したようなもの髙木卓 )」だったようです。
 
 ピアノ・ソナタの出版と同年、ライプツィヒドレスデンで ふたつの演奏会用序曲(「コリオラン」に似たニ短調モーツァルト風のハ長調 )が、初演されます。
 そして1832年、交響曲(第1番 )ハ長調 が完成。ワーグナーが完成させた、唯一のシンフォニー となります。同年11月、プラハ音楽院の初代学長ディオニス・ウェーバーが指揮する、同音楽院の学生オーケストラによって初演されました。
 その後、ライプツィヒで二度(年内にオイテルベ楽団により、さらに翌年1月にはゲヴァントハウスの定期演奏会で )再演されます。
クララ・ヴィーク(シューマン ) ロベルト・シューマン
 オイテルベ楽団の演奏会における交響曲の評判を聞いた 天才少女ピアニストだったクララ・ヴィーク(後のシューマン夫人 )が、未来の夫となるシューマンにあてた手紙の中で、「たいへん、アナタ ったら(同じザクセン人の作曲家に )先を越されちゃったわよー 」「ベートーヴェンの 7番にそっくりなんですって 」などと、書いて送った逸話が知られていますよね。12歳のクララに煽られ、焦ったシューマン(笑 )が ライバル意識に駆られて着手した習作 - ト短調シンフォニーが、翌1883年の「ツヴィッカウ」(結局 未完成 )です。

 ・・・もとい。ワーグナー交響曲についてのエピソードに、1835年ゲヴァントハウスの指揮者としてメンデルスゾーンが来任した時の因縁話もあります。
ワーグナーとメンデルスゾーン by あいさん
ワーグナーメンデルスゾーン(by あいさん
 当時まだ芽の出ていなかったワーグナーは、内心採用をあてにして、交響曲の改訂した総譜をメンデルスゾーンに託すのですが、預かったまま ずっと放置され続け、とうとう1947年にメンデルスゾーンは早世してしまいます。その死と同時に ワーグナー交響曲(改訂稿 )の楽譜は紛失されていたことが判明・・・(事実関係は未確認のままです )。

 それから ずっと後のこと、功成り名を遂げたワーグナー晩年期になって、偶然見つかったプラハ初演時のパート譜から 弟子のアントン・ザイドルが、師の交響曲の総譜を復元することになります。ワーグナーは - 逝去の僅か 2ヶ月前となる - 1882年のクリスマスに、ヴェネツィアフェニーチェ劇場で行われた妻コジマの誕生日を祝う私的なコンサートで、この 「若き日の懐かしい交響曲の指揮を(前半二楽章のみ、後半二楽章は 弟子のフンパーディンクが)執ったそうです。これが、ワーグナーの生涯で最期の指揮台 となりました。

若杉 弘 ワーグナー 二つの交響曲 若杉 弘
ワーグナー
交響曲(断章 )ホ長調 WWV.35
交響曲(第1番 )ハ長調 WWV.29
若杉 弘(指揮)
東京都交響楽団
録音:1992年 7月13~15日、東京芸術劇場
音盤:コロムビア / デンオン(COCO-73006 )

 何しろまだ 歌劇「婚礼」の台本さえ書く前の 若きワーグナー修業時代の作品です。未来の私たちは、あまりにも偉大な「トリスタン~ 」や「マイスタージンガー 」を通過した先入観をもって 聴いてしまうから、物足りなく感じるのです。同時代性を考慮すれば、ウェーバーシューベルト初期交響曲を思わせる音響に、十分当時の先端を走っていく先見性が聴き取れます。
 「プログラミングの時点で演奏会は始まっている 』との信念のもと、時代背景から 楽曲の調性・文学性・演奏機会といった観点から、世界に二つとないような凝ったプログラムを企画し、聴衆に聴かれる機会の少ない作品でも敢えてコンサート・オペラハウスで取り上げ(Wikipedia )」る姿勢を貫いてきた、わが国の代表的な指揮者 若杉 弘(1935 –2009 )指折りの名盤として知られていながら、入手しそびれたまま長らく入手困難な一枚でした。2009年に廉価で再発され、歓声とともに購入した記憶があります。
 若杉盤は、第一楽章の主部に入ってからの付点リズムで繰り返される突進が魅力的、ベートーヴェンの好ましい影響下にある 速いスケルツォ楽章とフィナーレを 生き生きと巧みに再現します。総じてレーグナー(D.S.)盤より かなり早めのテンポをとり、推進力を強く感じるメリハリある表現も好ましく、録音状態も優れています。
 さらに このディスクには、ワーグナーが1834年に書きかけて途中放棄した 2番目の交響曲 ホ長調も収録されているのが貴重です。その第一楽章は、これも冒頭からベートーヴェンを思わせるたーん、と・とん 」のリズムで開始される、初期ロマン派風の明るい作品。そして、わずか29小節で中断されたと伝わる 美しい第2楽章も、おそらくワーグナーが筆を止めた個所まで 丁寧に演奏されています。

次回につづく
スケルツォ倶楽部 ワーグナー 交響曲 ハ長調

参考文献
Wikipedia ワーグナーの楽曲一覧
素描の自叙伝 (ワアグナア、髙木卓/訳 )岩波書店
大音楽家・人と作品 ヴァーグナー(髙木卓 )音楽之友社
ワーグナーの世界(オードリーウィリアムソン、中矢一義/訳 )東京創元社
クラシック音楽作品名辞典(井上和男/編著 )三省堂

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