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「え? そんな終わり方って・・・ 」

 まだ幼かった頃、夜も更ければ 寝かしつけられる布団の中で 母親などに絵本を読み聞かせしてもらった、そんな懐かしい思い出をお持ちのかたも少なくないでしょう(二重否定の肯定文です )。
 でも 時々やたらと目が冴え、絵本の最後のページを終えても まだ眠れずにいたことも珍しいことではありませんでした。せっかくおしまいまで聞いていたのに全く予想外な結末が待ちかまえていて、子ども心に受け容れられないほど驚いてしまい、放心状態に陥ってしまった - なんてこともありましたっけ。

 たとえば、「ちびくろサンボ 」の(現在でも読めるのでしょうか、人種差別的な邦題は 今どき唯では済まない気がします )エンディング近く「トラはバターになってしまいました 」という衝撃的なシーンを描いた挿絵には、幼時の頃 もう咳き込むほど 驚かされたものでしたね。
 それから「浦島太郎 」 - 助けた亀のお礼に 龍宮城で盛大なおもてなしを受けていた筈だったのに、お土産にもらった玉手箱を開けた太郎が 一瞬で「お爺さんになってしまいましたとさ 」という結末は、まだ時間経過の感覚を意識できない子どもにとっては理解を超えた顛末で、太郎は一体どんな悪さをしたんだろ ? 自分は大事なところを聞き逃したのか ? などという疑問符で 頭の中がぐるぐる回り始めてしまったものです。
 さらに、もう少し大きくなって 枕元に用意された本を自分で読めるようになってから出会った一冊が「きつねのさいばん 」 - 森の動物たちが仲良く暮らす国で ひとり悪逆の限りを尽くす狐のライネッケ。その非道な行ないが目に余ると訴えられますが、狡賢い奸計で 判決は逆転勝利。しかも めでたく大臣の地位に着くなどという結末には、子ども心に矛盾と義憤を感じたものです。これが「魔王 」や「ファウスト 」を書いた文豪ゲーテの作品だったと認識するのは、ずっと後年のこと。
 同様に名作「幸福の王子 」に描かれた、タイトルに反するような結末も・・・。もうその頃には 作者オスカー・ワイルドの名前を 物語とセットで記憶できる年齢になっていました。ゆえに数年後、中学生になってから「サロメ 」や「ドリアン・グレイの肖像」に出会った時には 「なるほど、この人の作品だったら さもあらむ 」と、深く納得したものです。

空飛ぶスヌーピー
 さて、同じように( ? ) 音楽の世界でも 意外な終わり方をする曲って、けっこうありますよね。すべてが「ジュピター 」や「第九 」のように 華々しくフィナーレを迎える、判りやすい終わり方では 決してありません。中には「え? そんな終わり方・・・ って 考え込むような終止点に着地するような名曲も意外と多いものです。

 で、今宵は 私 発起人のほう )が、そんな楽曲たちに初めて出会った音盤の記憶も含め、思いつくまま ランダムに並べます。暫し おつき合いのほど。

 やはり 「はじめは ベートーヴェンから 」 でした。
 これは、以前にも書いた 名曲との出会いについての個人的な体験談。でも今回は、そのL.P.レコードの裏面に入っていた もうひとつの名曲シューベルト「未完成 」交響曲の「静かな終わり方 」です。

シューベルト Franz Schubert 運命 未完成 ウィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
シューベルト 交響曲第8番 ロ短調「未完成 」
ウィレム・メンゲルベルク指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1940年 4月、アムステルダム
音盤:Fontana(日本フォノグラムL.P. )

 私 発起人が小3の時、初めて「クラシック音楽 」と意識して 買ってもらったレコードがこれ。当時 = L.P.レコード全盛時代には、クラシックと言えば「運命/未完成 」という それこそ「鉄板 」なカップリングでした。「運命終楽章の、いかにもベートーヴェンらしい、しつこく念を押すような粘着質の終わり方に比し、シューベルトの まるで夢から覚めぬまま 消え入るような終わりを迎えたことに ライヴ会場の拍手の録音が知らせてくれました。
 この曲を生前完成させることなく逝ったシューベルト交響曲は 後半二楽章を欠いているため、演奏家は アダージョ第2楽章をもって終わらせざるを得なかったのです。

 また別の話題 「未完成 」考

 「未完成 」であるがゆえに 残されたフラグメンツのまま演奏すれば 意外な終わり方になる - そもそも作曲者自身が意図していなかった結果ですから、これは ある意味 当然のことでしょう。
モーツァルト「レクィエム 」ベーム(DG) モーツァルト
 たとえば、モーツァルトの遺作「レクイエム 」最後のパート「コンムニオ 」を 自身の手で完成させることが不可能であることを悟った作曲者が 弟子に指示した次善の方策 - 楽曲冒頭に置かれた「イントロイトゥス 」の第19小節目以降と「キリエ 」とを そのまま転用して全体の円環を閉じるという試み - は、たしかにやむを得ない措置でしたが、これがモーツァルトの「レクィエム 」全体に古典作品らしからぬ 意外な循環性を漂わせ、延(ひ)いては その後のロマン派への間接的な影響さえあったのではないかと、以前も考えてみたことがありました。

 また別の話題 ⇒ 走馬灯のように ~ フィナーレで回想される楽想

 また同様に「未完成交響曲 もうひとつの傑作として知られる ブルックナー第9番 ニ短調 も、今日のコンサートホールでは 第3楽章のアダージョで終わることが、普通となっています。
ブルックナー ブルックナー 交響曲第9番_ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団(CBS SONY )
 第8番以前の ブルックナーの他の交響曲すべてが、いずれも圧倒的なクライマックスを築いて華々しく終わるフィナーレだったのに対し、唯一 第9番だけが、あたかも天に召されるごとく神秘的な終わり方を迎えます。それは「作曲者の意志に反し作品未完成だったがゆえに - です。
 しかし、もし ひとりのカトリック信者として生涯をすごしてきたブルックナーが 彼の愛するに捧ぐべく準備していた交響曲を、実は 真摯な祈りのごとく 静謐に終わらせたいと望んだとしたら・・・ 当時、高齢で体力も衰えた作曲家にとっては 何らかの方法で “未完成を装う”しかなかったのではないか、というのが、私 “スケルツォ倶楽部発起人の年来の「仮説 」です。

 詳しくは こちら ⇒ ブルックナー 交響曲第9番 - 第3楽章は「十字架上のキリストの七つの言葉 」ではないか

 ・・・もとい。「未完成 」でもなければ、交響曲のような大曲を静かに終わらせることは 少なくとも古典派の時代までは 考えにくかったでしょう。
 あくまでシンボリックな意味で申しますが、「未完成交響曲 」は シューベルトが(ベートーヴェンによって押し開かれたであろう扉から )ロマン派の空へと羽ばたいていった最初の旗手的存在だったことを象徴しているように思います。

 さて、何事にも例外はあります。古典派シンフォニーが常に華々しく終わっていた、というわけでは ありません。
 時代は 少し遡(さかのぼ )って、“交響曲の父”たるハイドン自身の第45番「告別 」交響曲のエンディングが、まさに「え ? 」っていうほど たいへん変わった終わり方です。それこそ 音楽史上最初の試みだったんじゃないかと思います。


ハイドン ハイドン 告別 ヘルマン・シェルヘン ウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウェストミンスター)
ハイドン 交響曲第45番 嬰ヘ短調「告別 」
ヘルマン・シェルヘン指揮
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
録音:1958年 ウィーン
音盤:ウェストミンスター(ビクター / MVCW-18019 )

 第4楽章は 始めのうち いかにもフィナーレらしく きびきびとしたテンポで盛り上がり、一旦終結を装うものの、その後 属和音を合図にテンポを落とすと、突然ゆったりとした3/8拍子の緩徐部分となります。「古典派の交響曲 」という先入観が破壊される瞬間です。そして 実はここからが ハイドンの真骨頂。何と演奏しながら 団員が少しずつ持ち場を離れていくという前代未聞の演出が指示されているのです。さらに、このレコードでは 去りゆく演奏家らが一人一人「ここでお別れ 」とか、「さようなら 」、「アウフヴィーダーゼーン 」などと 録音マイクに向けて別れの言葉を告げ 去ってゆく声まで ステレオで聞こえるのが、何とも判りやすい工夫でした。


▲ ハイドン 交響曲第45番「告別」第4楽章
ウィーンフィルハーモニー
ニューイヤーコンサート2009 より
(指揮:ダニエル・バレンボイム ) 
 
 これは かつて(2009年 )ウィーンフィル・ニューイヤー・コンサートの指揮台に立ったバレンボイムが選曲、ハイドンの演出をウィーンフィルのメンバーを使ってやってのけた、たいへん貴重な映像。
 徐々にオーケストラの団員が減ってゆき、とうとう左右のヴァイオリン奏者一名ずつという最小限な楽器で終わるところまで観ることができますが、さらに この映像で興味深いところは、演奏を終えて 最後の二人も退席してしまい 指揮台上でバレンボイムが独り しばらく無音の音楽を指揮し続けるという演出でしょう。

 この曲が成立した背景については、どなたもご存知の 有名な逸話がありますよね。
 ハイドン(当時40歳 )が、エステルハージ侯楽長を務めていた 1772年夏のこと。侯爵の専属オーケストラ団員一同とともに ユネスコの世界遺産にも登録されている 美しいノイジートラー湖畔への避暑に同行していました。その土地の快適な気候のせいでしょう、当初の予定滞在期間を過ぎても侯爵は帰ろうとせず、団員たちは相対的に自分らの夏休みが減らされてしまうことに 不満を募らせていました。
 これに一計を案じたハイドンは、遠回しに「音楽を使った休暇願い 」を企画、それが この第4楽章エンディングです。雇い主たるエステルハージ侯も大した人物で、その宵のコンサートで このエニグマのようなシンフォニーを聴くなり、賢明にもハイドン楽師らの境遇に ハッと気づくのです。の対応は素早く、翌日には 全員に無条件で休暇を申し渡したという、そんな理想的な労使交渉のようなハッピーエンドなエピソードが残されています。
 これ、現代なら 見方によっては、労働者たる演奏家側からの 雇用者へのストライキ演奏ボイコットに見えなくもありませんが(笑 )、果たして実話なんでしょうか。


 意表を突く終わり方、と言えば 私が 小6(の頃 )の夏休みに NHK-FMから流れてきた、モーツァルトの「音楽の冗談 」を 初めて聴いた時の衝撃も忘れられませんね。
!W.A.モーツァルト モーツァルト「音楽の冗談」ボスコフスキー ウィーン・モーツァルト・アンサンブル
モーツァルト
ディヴェルティメント ヘ長調 K.522「音楽の冗談 」
ウィリー・ボスコフスキー指揮 Willi Boskowski
ウィーン・モーツァルト・アンサンブル Vienna Mozart Ensemble
録音:1965年頃
音盤:DECCA/LONDON(KIJC-9226 )

 全四楽章の至る所に わざと誤った楽理に基づく素人風の合奏が諧謔たっぷりに聞かれます。これほど有名な曲にならなければ、音大入試の「間違い探し問題などにも使えたかも( ? )です。子どもの耳にさえ稚拙に聞こえた不思議なメロディ・ライン、アダージョの途中で唐突に始まる自己顕示欲丸出しなヴァイオリン奏者による抱腹絶倒なカデンツァホルン奏者が豪快に放つトゥリラーの もの凄い違和感・・・。
 中でも極まるのは、新ウィーン楽派を先取り(笑 )する 終楽章の「終わり方 」ではないでしょうか。もし 「ご存知ない 」という幸運な方がいらっしゃったら、ぜひご自分の耳でお確かめください。


ウェーバー Neujahrskonzert, 2003 Nikolaus Harnoncourt ベルリオーズ
ウェーバー(ベルリオーズ編 )
「舞踏への勧誘 」
ニコラウス・アーノンクール指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2003年 1 月 1日 ウィーン、ムジークフェラインザール
音盤:D.G.

 同曲を初めて聴いたのが 誰による演奏だったか、発起人 もうすっかり忘れてしまいましたが、ピアノ演奏だったと思います。そうなんです。これ、原曲はピアノ曲。それに こんな素晴らしいオーケストレーションを施した人は、誰あろう エクトル・ベルリオーズ その人です。「幻想交響曲 」の第2楽章と まるで 「同じ舞踏会場 」にいるかのような雰囲気を感じますよね。
 主部であるワルツが始まる前と 終わった後に、それは魅力的な器楽レチタティーヴォが置かれていますが、もしウェーバーの意図を知らせずに聴かせたとしても きっと十人が十人「ワルツを踊る男女の会話でしょう 」と容易に想像できるような、そんな素敵な仕掛けがされています。
 その標題は大体、以下のようなもの。
 舞踏会場で一人の紳士独奏チェロ )が 若く美しい女性木管 )にダンスの相手を申し込みます。彼女は奥床しく一度は辞退しますが、男が重ねて熱望するので 同意、彼らは手をとりあってダンス・フロアへ歩みつつ(美しい弦の刻み )会話を続けます。音楽が始まるまでに 二人はすっかり意気投合、自然に舞踏へと流れ込むのでした・・・。

 一般にはきっと終わり方が分かりにくい、この曲実演では よくあることだそうですが、やはりここでも華々しいワルツの終了をもって(静かなコーダの余韻を飛ばして )拍手を始めてしまった一部の聴衆を、アーノンクール師、指揮台の上から叱りつけるような厳しい表情で制止し、会場が鎮まったことを確かめてから 徐(おもむろ )に、ウィーンフィルエンディングを演奏し直させる - そんな一連の様子すべてが そのまま音盤に収録されています。


リヒャルト・シュトラウス R.シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」ショルティ シカゴ交響楽団(DECCA LONDON) ゲオルグ・ショルティ
リヒャルト・シュトラウス
交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき 」
ゲオルク・ショルティ指揮
シカゴ交響楽団
録音:1975年 5月、シカゴ
音盤:DECCA/LONDON(キングSLA-1116 )

 懐かしいショルティ/シカゴ交響楽団(デッカ/ロンドン )盤は、高校生だった私 発起人同曲最初に購入したレコードでした。かの有名な冒頭から サウンドは全開、パワー漲り、もう理想的といってよい名演奏でしたね。基音と属音を叩きまくるティンパニの正確無比な音程と抜けの良さったら、その溢れる威力は 他のどの演奏の印象も突き放し、大きな満足感を与えてもらいました。

 さて、リヒャルト・シュトラウスも ちょっと変わった終わり方をする交響詩が多い作曲家ですよね。判りやすく終結させる作品など、若い頃の交響的幻想曲「イタリアから 」とか「ティル・オイレンシュピーゲル~ 」くらいしか書いていないのではないでしょうか。とりわけ「ツァラトゥストラ~ 」の終わり方に注目して聴いてみると、非常な難解さを感じます。
 人間の存在(ロ長調 )と自然(ハ長調 )とを複調で並置させつつ、相容れぬも交互に歩みゆくことを暗示する意図だったとすれば、単純な私には 些か演奏効果を築きそこなったようにさえ 聴こえてしまいます。
 何しろ すでに出だしで最初から あれほど壮大なクライマックスを築いているというのに、果たして この竜頭蛇尾感も満載な終わり方ったら一体・・・ もう少し何とかならなかったものでしょうか。作曲者自身は「人類の発展の観念を、その起源からその発展の種々の様相を経てニーチェの超人の概念に至るまで伝えようと意図した(R.シュトラウス ) 」と、自己満足気味に創作の成功を語っているほどですから、ニーチェの著作と音楽との関係は「密接なこともあれば、またきわめて自由なこともある(門馬直美 ) 」ということなのでしょう。畏れ多くも評価することは難しいです。結局 この曲の価値を今日の地位まで高めた 歴史的な功労者は、やっぱりキューブリックだったのかも ?
 

ショパン ソナタ第2番 ホロヴィッツ(CBS) チャイコフスキー「悲愴」ムラヴィンスキー レニングラード・フィル シベリウス 交響曲第5番 デイヴィス ボストン交響楽団(PHILIPS) ストラヴィンスキー 春の祭典 ブレーズ ニューヨーク・フィル(CBS)
 さて その他、ショパンピアノ・ソナタ第2番チャイコフスキー「悲愴」交響曲シベリウス交響曲第5番ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ 」など、いずれも初めて聴いた時に「 ? え、そんな終わり方って・・・ 」と、エンディングに驚かされた名曲ばかりです。
 この続き、また機会があれば 書かせて頂くかもしれません。お付き合いくださり、ありがとうございました。明日は 私も仕事ですので、今宵は この辺で。おやすみなさい !


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