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本記事は、7月23日 「注目記事ジャズ ランキング 」 で 第1位となりました。
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ゲッツ / ジルベルト 」 ―
アストラッド・ジルベルト
イパネマの娘 」を 英語で歌わせたのは誰?

(大)Getz Gilberto アストラッドに 「イパネマの娘 」を 英語で歌わせたのは誰? 180×180 (左から)ジルベルト、ジョビン、ゲッツ
“GETZ / GILBERTO”(1964 ) Verve
Stan Getz, Joao Gilberto featuring Antonio Carlos Jobim

スタン・ゲッツ Stan Getz (テナー・サックス )
ジョアン・ジルベルト João Gilberto (ギター、ヴォーカル )
アントニオ・カルロス・ジョビン Antônio Carlos Jobim (ピアノ)
セバスチャン・ネト Sebastião Neto (ベース )
ミルトン・バナナ Milton Banana (ドラムス、パーカッション )
アストラッド・ジルベルト Astrud Gilberto (ヴォーカル )
録音:1963年3月18~19日 ニューヨーク


 ゲッツ / ジルベルト Getz / Gilberto ― もはや解説も不要の名盤。
 中でもアルバム冒頭一曲目「イパネマの娘 」は、シングル発売され 記録的な大ヒットとなりました。が、そのシングル・レコードは、あろうことかジョアン・ジルベルトが歌っているオリジナル・パートを ばっさりカットし、当時の妻だったアストラッド・ジルベルトのヴォーカルをメインに編集した短縮版でした。一体どうして こんなことになってしまったのでしょうか。

 オリジナル・レコーディング(05:20 )では ジョアン・ジルベルトが 一番を 原語(ポルトガル語)で歌い、妻のアストラッドは 二番を英語で歌い継いでいます。もし お手元に アルバム「ゲッツ / ジルベルト 」があれば、ぜひお確かめください。


▲ そして、こちらが 問題のシングル・ヴァージョン(02:45 )。
 冒頭の4小節 - ジョアンがギターでリズムを刻みつつ 柔らかくハミングするところから 不自然に音場が変わって アストラッドの英語歌唱に飛んでしまいます。が、テープ編集がたいへん巧みなので、原曲を知らなければ 気づかずに聞き流されるのでしょう。
 拙い英語歌詞に 舌足らずな英語の発音による歌唱も、米国人にとっては異国情緒を刺激され、好意的に聴かれるのでしょうか。 その彼女のパートさえも She looks straight ahead not at he でスパッと切られ、リズミカルなスタン・ゲッツのテナー・ソロ(の一部 )が 8小節だけ切り貼りされます。続けてジョビンが奏でる原曲メロディに沿ったアコースティック・ピアノ・ソロ16小節、そこから切れ目なくアストラッドの英語歌唱 Oh,but he watches her so sadly… へと戻り、その背後でゲッツのオブリガートを絡ませつつ エンディングのフレーズ She doesn’t see を繰り返しながら徐々にF.O.(フェードアウト )していきます。このヴァージョンにおいて、本来ジョアン・ジルベルトがメインで歌っていた筈のポルトガル語のヴォーカル・パートは、一切( ! )聞かれません。

Getz, Milton Banana, Jobim, Creed Taylor, João and Astrud
 かつてNHK-BS放送に「世紀を刻んだ歌 」という良番組がありました。そこで、ジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビンというボサノヴァ創草期の偉大な二人の友情と、この謎に満ちた「イパネマの娘 」レコーディングを描いた放送回が印象的でした。これを視聴した時の記憶のみに頼って書いておりますが、NHK番組制作班が 果敢にもヴァーヴ・レコードのマスターテープ保管庫の中にカメラを持ち込み、当時「イパネマの娘 」が いかなる環境で録音されたかを 克明にとらえた取材力は、大した功績だと思ったものです。
 1963年当時、マルチトラック録音とは言っても まだ黎明の手探り期で、名門ヴァーヴでさえ レコーディング・スタジオに備えた機材のマスターテープは わずか 3トラックだったそうです。名盤「ゲッツ/ジルベルト」を録音したマスターテープには、二つのトラックに ① ジョアン・ジルベルトのヴォーカル & ゲッツのテナー② リズム・セクション(ピアノ、ベースとドラムス )を充てると、残った③番目のトラックには 意外なことに、アストラッド・ジルベルトが歌うパートだけを専用に振り分けていたのです。これは、レコーディングに慣れていない素人のアストラッドが、もし歌唱をしくじっても 彼女だけ録り直しが利くということを意味します。
 このマスターテープの存在が決定的な証拠と言えるでしょう。録音スタジオという密室の中、何者かの意志によって用意周到にアストラッドが歌う英語ヴァージョンは企画され、そして録られたのです。

 以下は スケルツォ倶楽部発起人の想像域にある、英語版「イパネマの娘 」 関係者らの 「仮想」証言集 です。互いに食い違う証言内容( = 真相 )は、「藪の中 」(芥川龍之介 )を イメージください。
 事実に基づきますが、あくまでフィクションですので あしからず。


▼ ヴァーヴレコードのプロデュサー、クリード・テイラー から事情を聴きました。
クリード・テイラー(1963年)
「アメリカ国内でリリースされるレコードなのに、なぜポルトガル語の歌を出す必要があるだろうか、『考えてもごらん、ジョビン。きみが作曲した素敵なメロディに、もしアメリカ人なら誰にでも解る英語の歌詞が付いていることを想像してみたまえ、大ヒット間違いなしだよ 』って、ジョビンにモチベーションを与えたのは事実です。
「そうしたら 録音の二日目になって ジョビンが、実は 『イパネマの娘 』には英語の歌詞があるのだが、母国語にこだわるジョアン・ジルベルトは 歌うことを拒否している、 けれど英語がしゃべれるアストラッドなら歌えるから - と、提案してきたんですよ。
ジョビンは賢い男でしたから、どうすれば自分が作曲した歌が 全米規模で、より多くの人に届くか、わかっていたんでしょうね 」


▼ 録音技師、 フィル・ラモーン から 事情を聴きました。
フィル・ラモーン 1963年
「マルチトラック・レコーダーを使えば、歌うのに慣れていない アストラッド嬢のような素人歌手でも 録り直しの不安なく 吹き込めることを、私がクリード・テイラーに請け負いました。クリードは、この 『飛び入り参加のハプニング 』に大乗り気でしたね。
「実は、もし使い物にならないレヴェルだったら 後でカットできるよう 彼女の歌だけを 独立したトラックに割り当てておいたんですけどね。心配無用でした(笑 ) 」


▼ アントニオ・カルロス・ジョビン に 事情を聴きました。
アントニオ・カルロス・ジョビン 1963年
「ボクのほうから アストラッドに英語歌詞を歌わせようとしたなんて、あり得ませんよ。おかげでジョアンとの仲が気まずくなっちゃったじゃありませんか、どうしてくれるんですか。
「そもそも あの酷い米詞だって ボクが訳したわけじゃない。すでに クリード・テイラーが 手回しよくノーマン・ギンベルって野郎に用意させたもので、ちゃっかり無断登録された『イパネマ~ 』の米国内著作権料の比率ったら 原作者たるボクらのほうがアメリカ人の仲介者より全然低いんだから、一体どうなってんだよ(怒 ) 」


▼ スタン・ゲッツ に 事情を聴きました。
スタン・ゲッツ 1963年
「ハ、興味ないね。あれは 決して雰囲気の良いレコーディングじゃなかったしね。
「言葉は通じなくても、相手の態度みれば判るんだよ、ジルベルトのヤツ、俺に音を下げろだなんて、通訳を兼ねたピアニストに怒鳴ってるのを見れば、何をこの野郎って、さらにデカい音量で長いソロ吹いてやれと 逆に燃えちゃうんだよね(笑 )。
「そして俺は、いつでも きちっと決められた時間の枠内で 自分のなすべき仕事をこなすだけさ。当時は税金を滞納してたから、金のためならと何でもやっただろうね、たとえスタジオにいるのが ディジー・ガレスピーだろうと、エラ・フィッツジェラルドだろうと、はたまたブラジルからきたお坊ちゃんたちだろうと !
「ああ、たしかに休憩時間中、お嬢ちゃんがひとりテープに合わせて 少し歌ってたけど・・・ 旦那に付いてきてた素人の歌唱だぜ。あれにギャラを支払ったって ? へえ・・・(笑 )」


▼ アストラッド・ジルベルト に 事情を聴きました。
アストラッド・ジルベルト 1963年 (2)
「わたしに 歌うよう勧めてくれたのは、ジョアンよ。しかも彼は ニューヨークのA&Rレコーディング・スタジオで ジョビンに “自分のパートは、後でカットしてもいいから” とさえ言ってくれたのよ !
「結局 お別れすることになっちゃったけれど、今でもわたし、ジョアン・ジルベルトを尊敬している。だって 最初に結婚する前に、彼はわたしに宣言したんだもの 『きみを歌手にしてあげるよ 』って、彼ったら ちゃんと約束を守れる男なんだわ ! 」


▼ ジョアン・ジルベルト に 事情を聴きました。
ジョアン・ジルベルト 1963年
Sem comentários(ノーコメント ) 」


- 偉大なジョアン・ジルベルト師の功績を讃え、心よりご冥福を祈念いたします。
晩年のジョアン・ジルベルト
ジョアン・ジルベルト・プラド・ペレイラ・ヂ・オリヴェイラ João Gilberto Prado Pereira de Oliveira
1931年 6月10日 - 2019年 7月 6日
ボサノヴァの創始者 」、「ボサノヴァの法王
アストラッドとの離婚後、歌手のミウシャ(エロイーザ )と結婚(ベベウ・ジルベルトミウシャとの間の娘 )。


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