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「気分がふさいでいるときは、いつも 新しいレコードを何枚か買うことにしてるんだよ 」 

マーラー交響曲第1番
なぜ「巨人」と呼んでは イケナイのですか。


 私が ジャン・パウル「巨人 」の初めの二巻を読み終え、続きの一冊を 懐かしい祖父時代の古い蔵書の山から探していたら、弟のフリッツが 花火をつくるために第三巻のページはぬきとって 火薬の薬包づくりに使ってしまったことを白状した、のみならず その巻はそれでなくとも落丁があった、などと言い訳をしたものだ。そうした宵は いつも ほんとうに楽しかった。
 ― ヘルマン・ヘッセ「青春は美わし 」より (新潮文庫 高橋健二/訳にもとづく )



マーラーの交響曲第1番を なぜ「巨人」と呼んではイケナイのですか。

  “スケルツォ倶楽部発起人です。
 連休中のとある日の午後、近所のイオンモール専門店街にひっそり入っているタワーレコード店舗内をぶらぶらと歩いていたら、フランソワ=グザヴィエ・ロト/レ・シエクルマーラーハルモニア・ムンディ盤 )が並んでいるのに気づきました。わけもなく心惹かれる魅力的なジャケットに見とれ、つい衝動買い・・・。
 どんなジャケットか、ですって ? こちらです。
マーラー「巨人」ハンブルク版_ロト(HM)盤

 フランシスコ・デ・ゴヤの名画「巨人」・・・って、そのまんまじゃありませんか(笑 )。大胆に Titanなどと堂々大書されてるし・・・。近年マーラー交響曲第1番 ニ長調を「巨人」と呼ばわる習慣は もはやNG - “スケルツォ倶楽部”会員の皆さまだったら すでにご承知の「何を 今さら」な(笑 )常識ですよね。 

 しかし、実は このレコーディングを企画したロトの意図を知れば、今回は「巨人 」と掲げるのが 正解ですから。はい、今日は このロト/レ・シエクルによる「巨人 」を聴きつつ、マーラー交響曲第1番の成立などについて、つらつら心に思い浮かぶことを ランダムに書き連ねてまいろうと思います。 

ゴヤ「巨人」(1810年 )マドリード、プラド美術館蔵
 ちなみに 2009年プラド美術館が それまでゴヤの真筆とされてきた名画「巨人 」を、実は 弟子のアセンシオ・フリアが描いた作品であった( ! )という驚きの見解を発表したのも 記憶に新しいところ・・・でも それはまた別の話ですが。

 もとい。若きマーラーは、大いに自信があった(と伝わる )最初の“シンフォニー”を書き上げると 当時ハンガリー王立歌劇場の監督だった立場で、1889年11月 ブダペストでの初演にまで漕ぎ着けます。それは五楽章から成る大作で、前半三楽章後半二楽章とに 意味ありげに分けられた 二部構成の「交響詩 」でした。そう、意外にもまだ「交響曲 」とは名づけられてはいなかったのです。
 「交響詩 」 - 本来なら 文学的・絵画的な内容を表現するロマン派特有の標題音楽の一形式である筈ですが、にもかかわらず 何故かマーラーは この曲にタイトルもプログラムも一切付けることなく初演の日を迎えています。これが、今日では現存しない「ブダペスト初稿 」です。そして、結果は 散々な不評で、作曲者を「打ちのめした 」と伝えられます。
 マーラーは、この失敗の原因のひとつが 聴衆を置き去りにしたことにあり、自作を理解してもらうためには(まるで天啓を得たかのように、)具体的な標題を付ける努力を怠るべきではなかったという考えに至ったようです。
 その結果、作曲者は 次に来るべき再演(の機会 )のため、殆ど後付けで ジャン・パウルに由来する「青春の日々より、花と実と荊の曲 」という標題を探し出してきました、ここまでなら そう悪くないタイトルだったと思います。が、その辺で止めておけばよかったものを 一途な若さは 極端に走りました。さらにカロ、ダンテ、バルザック、E.T.A.ホフマンらの作品まで持ち出し、各楽章の標題プログラム )として無理やり紐づけ、いかに自作が高尚かつ気宇壮大なテーマに基づいているかを 盛りまくった挙句、とうとうテーマ自体が支離滅裂になってしまったのでした。
 そんな試行錯誤に修正 / 改訂のペンを重ねた時期の版が、 4年後(1893年10月 )のハンブルクでの上演、および その翌年(1894年7月 )のヴァイマール再演でも(さらに修正の上 )使われたとされる「ハンブルク - ヴァイマール(1893-94 )稿」です(単に「ハンブルク稿 」と呼ばれることも多いようです )。
 今回、レ・シエクル率いるフランソワ=グザヴィエ・ロトは、マーラーの最初のシンフォニーが かつて “交響曲様式による音詩巨人 という標題がつけられていた当時の姿を「再現 」することを目的に、レコーディングへ臨んだわけですね。

 この後、最終的に交響詩「巨人」は、それから 2年後(1896年3月)ベルリンでの再演の折り マーラー自身の手によって、交響詩交響曲 ニ長調 に改められ、標題「巨人」も削除第2楽章「花の章」削除各楽章のプログラムも 全部削除され、現在おなじみの “第三稿” 「四楽章構成 」の「交響曲第1番 ニ長調 」となったことは、どなたもご承知のとおり。
 はい、これが 今日 同曲の呼称に「巨人 」を付すことが不適であることの理由であります。

マーラー 交響曲第1番「巨人」1893年版 フランソワ=グザヴィエ・ロト&レ・シエクル HM
マーラー
交響曲様式による音詩
巨人

第1部 青春の日々から、若さ、結実、苦悩のことなど
     第1楽章 終わりなき春
     第2楽章 花の章
     第3楽章 スケルツォ 順風に帆を上げて
第2部 人間喜劇
     第4楽章 座礁、カロ風の葬送行進曲
     第5楽章 地獄から天国へ

フランソワ=グザヴィエ・ロト ル・シエクル(HM)
フランソワ=グザヴィエ・ロト 指揮
レ・シエクル
録音:2018年2月、3月、10月、パリ
音盤:harmonia mundi (HMM-905299)


 以下、聴き慣れた現行版との違いを含め、耳で判別できる限りで 発起人の覚え書きです。
 たいへん鮮明な音質。例の 第一楽章イントロダクションで聴こえてくる 静かなファンファーレも 舞台裏からのホルン・アンサンブルによるものであると、はっきり識別できます。音質が鮮明というばかりでなく、聴き手を心地良い音場に取り残してくれるような、実に素敵な感覚に捕えてくれますね。各楽器の配置も明快に「見え」るようですし、その印象は 舞台裏ホルンばかりでなく、全ての楽器間の距離感まで明快です。
 弦セクションは 意外に少人数らしい(良い意味で )室内楽的でスリムな響き。当然のように効果的な対抗配置で、アンサンブルの動きが手にとるようにわかります。

 美しい「花の章 」は、ソロ・トランペットの距離感が 実に自然。
マーラー「巨人」ハンブルク版_ハマー(フンガロトン)盤
 たとえば ジョルト・ハマー指揮 / パンノン・フィルハーモニック(HUNGAROTON )盤のように、(意図的か )指揮台のすぐ脇にソリストが立っているように聴こえる、まるで トランペット・コンチェルト( ? )のような - 距離感も ホール感も皆無な - 乾いた録音までありました。が、やはり音響全体で音楽をとらえた場合、適度なサウンドスケープは重要であろうと感じます。その点、ロト盤には まったく不満はありません。と言いますか、逆に理想的とさえ申し上げたくなります。さらに後半の弦セクションが織りなす美しい動きなど、終楽章に再現されることに あらためて気づかせてくれる、特筆すべき素晴らしさです。
 
 やはり面白いのは スケルツォ楽章ですね。剃刀のように鋭い弦の切れ味、ヴィブラートこそ控えめですが ポルタメントは容赦なくかけています。途中何ヶ所か 意表を突いたレガートな動きに吃驚。
 興味深いことに、同じハンブルク稿のディスクとして知られる若杉弘指揮 / 東京都交響楽団(FONTEC)盤やデ・フリエント指揮 / ネザーランド交響楽団(CHALLENGE CLASSICS )盤などを思い出してみると、開始の低弦オスティナートに ティンパニの打撃を力強く重ねていたのに対し、今回のロト盤は 現行と同様、リズムを刻むのは低音弦のみです。実際には ハンブルクヴァイマールベルリンへ至る、どの過程で 細かい改訂のペンが加わったかは 厳密には不明なわけですから、どこを捨ててどこを採るか、実演の解釈は指揮者の自由なのでしょうか。
マーラー「巨人」ハンブルク版_デ・フリエント(チャレンジ・クラシックス)盤 マーラー「巨人」ハンブルク版_ヘンゲルブロック(SONY)盤
 ティンパニを加えていない演奏は、他に ヘンゲルブロック指揮/北ドイツ放送交響楽団(SONY )盤なども同様です。
 
 次の葬送行進曲、冒頭も現行と同じくコントラバスのソロで開始。木管との綾なす動きも絶妙です。途中乱入してくる浮かれ騒ぎの対旋律の背後で叩かれるコル・レーニョの音色のリアルなこと。そして何と素晴らしいオーボエの音色・・・ これ一体何でしょう。やがて美しい「恋人の青い瞳」の旋律を奏する弦セクションの素晴らしさも忘れられません。

 終楽章、決して速すぎず 中庸なテンポ維持が好感度高め。弦の忙しい動きにも余裕があります、且つ室内楽的でスリムだと感じたサウンドの特色がここで最大限に活かされます。その激しい動きが徐々に静まって、やがて弦が美しく歌うパート、その途中シンコペイトする中低音域の大きな思い入れには 感動。
マーラー「巨人」ハンブルク版_若杉弘(FONTEC)盤
 思い出してみると、私 発起人が 初めて「巨人1893年改訂稿が演奏されるのを 聴いたのは、若杉弘/東京都交響楽団(FONTEC )盤で でした。このライヴ盤におけるコーダの最後で、ティンパニと大太鼓、トライアングルなどパーカッション隊がフォルティッシモでトレモロを続ける中、その他の全楽器は、二小節休んでは一発 ニ長調でトゥッティ、さらに二小節休んでもう一発 ニ長調でトゥッティを炸裂させ、その末に最後の「カッコー 」がオクターヴ下降して全曲を終えるところ、若杉盤で 心底仰天したことは、打楽器以外の休止が 約倍の四小節も在ったことでした。二発めも四小節後・・・ 地響きのような打楽器のトレモロが長ーい ! 長過ぎる ! 最後の最後で 現行版との あまりの相違に驚き、にもかかわらず、そこで背筋が寒くなるほど感動してしまった、そんな記憶。
 そのエンディングに注目すると、今回のロト(HM )盤や ヘンゲルブロック(Sony )盤は、現行と同じ解釈で 特に違和感なしでした。若杉盤と 同じ振り方で 長い“地響きエンディグ”が聴けるのは、私が知る限り、他にハマー(HUNGAROTON )盤、デ・フリエント(CHALLENGE CLASSICS )盤くらいでしょうか。ハマー盤には 迫力 今ひとつ。
 やはり個人的には、初めて聴いた若杉盤から受けた衝撃の大きさが、最後のフライングブラボーの声とともに(笑 ) 忘れられませんね、刷り込まれてしまいました。


終楽章の一部についての雑談・・・
Gustav Mahler ワーグナー
  「マーラー第1交響曲第4楽章を聴くたびに いつも途中で、似てるなーって、感じる部分があるんだけど・・・ 」
  「ふんふん、それは ? 」
  「ワーグナー楽劇『ラインの黄金 』で、ヴォータンエルダの忠告を聞き入れ、ニーベルングの指環を一旦手放すことを決める場面があるだろう。ファーゾルトファーフナー巨人兄弟に 不吉な指環を投げ与えた後、一度 弦セクションが盛り上がってから徐々に静まって、一瞬 とっても美しいフレーズが出るんだけど、そこが マーラー終楽章の途中で出てくる 弦の動きと似てると思うんだよね 」
  「ええと・・・ それ、誰でも持ってる ブルーノ・ワルター/コロンビア交響楽団(CBS-SONY )盤だったら、どの辺かしら ? 」
  「 終楽章のトラック 05分25秒 あたり以降だったかなー (CDで プレイバックする )」
ワルター(CBS-SONY )盤 マーラー 交響曲第1番 ブルーノ・ワルター Bruno Walter CBS
  「(傾聴しながら )ははーん ・・・ 」
  「 ? 」
  「そこは 指環と引き換えに 女神フライア神々の許に帰ってくるシーンでもあるわけじゃない ? 神々は互いに抱擁し合い、再会を喜び合う ― って、ワーグナーのト書きにも書いてある場面でしょ 」
  「あ、わかったかも ! 」
  「そう、フライア美と青春の女神。『巨人 』の終楽章青春が戻ってくる ことの寓意ではないかしら、まさにマーラーが さりげなく引用したところは ? 」 
「ラインの黄金」(カラヤン映像版)
▲ 「芳しい青春が、再び われわれの許に帰ってきたのだ 」 (D.G.カラヤン映像版「ラインの黄金

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