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ブルックナー 第9_カラヤン ベルリン・フィル DG ブルックナー ブルックナー第9(4楽章 )インバル フランクフルト(Teldec)
ブルックナー 交響曲第9番第3楽章は、
十字架上のキリストの七つの言葉 」を描写している。
・・・という仮説


 こんばんは、“スケルツォ倶楽部発起人 です。
 今宵の話題は アントン・ブルックナー、敬虔な教会オルガン奏者でもあった偉大なシンフォニストの遺した最高傑作 交響曲第9番ニ短調は 作曲者の死によって フィナーレとなるべき第4楽章を欠いた三楽章だけの「未完成 」ですが、ブルックナーが生涯最後に完成させた楽章「アダージョ 」のケタ外れな素晴らしさによって、この交響曲アダージョで終結させるという演奏習慣に不自然さを訴える人はいないでしょう。

 もはや「神品 」と讃える以外に相応(ふさわ )しい表現が見つからない、「終楽章 」となったアダージョの 特に弦セクションから惜し気もなく湧き出でる旋律の数々の美しさ - ああ、この素晴らしさを 一体どんな言葉を用いて伝えたらよいでしょうか。

ブルックナー 交響曲第9番_ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団(CBS SONY )
▲ 忘れもしません、私 “スケルツォ倶楽部発起人、高校一年生の冬休み ブルーノ・ワルター指揮 / コロンビア交響楽団(CBS/SONY )という歴史的な名盤に出会った時、何かとてつもなく偉大な作品を聴いてしまった という感覚、大曲を聴き終えた興奮もさめやらぬまま もう一度、もう一度と 若い衝動に駆られるまま このL.P.レコードB面「二つめ 」トラックに ( 何しろ奇数楽章が長いので、第2楽章「スケルツォ 」はあろうことかA面最後で分割され 3/8拍子でリズムを刻むトリオからB面は始まっていたものです ) 何度も慎重に針を降ろしては、その高く聳え立つ未完のトルソーに触れるたび 感動の酸欠状態を繰り返していました。はー、何と純粋な少年だったことか(笑 )。

 最晩年のブルックナーが渾身の力で描き残した音楽の神髄「アダージョ 」は、作曲者が私淑したワーグナーの「タンホイザー 」や「トリスタン~ 」といった なまめかしい官能性に訴えるような種類のものとは明らかに異質の音楽だなー と 当時まだ高一だった私にでさえ 容易に感じることができました。
 その頃、私が在学していた私立明治学院東村山(中学 )高校は 熱心なミッション・スクールでしたから、そこで毎朝 日常的に聖書と讃美歌に触れていた私 - 若き日の“スケルツォ倶楽部発起人 - が ブルックナーアダージョを聴いて 宗教的な感情 - 無償の「汚れなき崇高さ 」 - を強く感じたのは、今 思えば 至極自然なことだった - と回想します(その理由は後述 )。

 ・・・で、間もなく 私は、そんなブルックナーの(第8番以前の )他の交響曲“連峰” も訪れました。が、聴き比べていくうち (私にとっては )「第9 」のアダージョだけは 些か「別格の個性 」を有しているのではないか - と感じるようになりました。
 それは、ひとつには ブルックナーがこの「第9 」のアダージョに用意した新しい旋律が、他の自作シンフォニーの緩徐楽章に比べると 目立って 多い ことです。それら 美しいメロディ たちは、 まるで清冽な泉から湧き出るかのように 惜し気もなく 次々と新しく姿を現わしては しかし複雑な発展をみせることなく 儚(はかな )く消えゆきます。その過程を、まるで何かのテキストに沿って 標題音楽が進行しているように、私は感じるようになりました。
 ブルックナーは、今日(こんにち )典型的な絶対音楽の作曲家と見なされており、事実 標題音楽作品は残していません。
 けれども 例えば 第4交響曲「ロマンティック 」第1楽章冒頭のホルンを「町の庁舎から一日の始まりを告げるラッパが鳴ります 」と説明したり、第8交響曲ハ短調第4楽章のリズムを「ロシアのコザック隊の進軍です 」と呼んだ、というように 実は 自らの作品に具体的なテーマやイメージをもって臨んでいた姿勢も うかがえるのです。
 ・・・では、この「第9 」のアダージョに、作曲者が 内心 何らかの標題を充(あ )てて創作していたとしたら、それは 一体どんなテキストであっただろう ? というのが 今日のテーマです。 実は、私は これについて かれこれ30年以上も ずっと心の中で考え続け、ブルックナーの「第9 」を聴くたび この宿題(笑 )を思い出していたほどでなのです。

 その結果、最近になって ようやく ひとつの仮説に 思い至りました。
 ヒントとなったのは、ブルックナー自身が その最晩年に 講演で発したという - 「もし自分が 最後の交響曲の終楽章を完成できなかったら、代わりに 『テ・デウム 』 を演奏してほしい 」 - この有名な言葉です。
 「なるほど、ベートーヴェンの(奇しくも同じ )第9交響曲ニ短調のように合唱付きのフィナーレでしめくくられるんだな 」と妙に納得する人々(実際に、そのような意図で企画された演奏会もあったそうです )がいる一方、「散逸した第4楽章のスケッチに残された音型が『テ・デウム 』冒頭に似ているための発想ではないか 」と解説する研究者もいました。けれど 音楽的にみた場合、このアダージョの後に「テ・デウム 」を 切り貼り 付け足して演奏するような行為は、調性も含め 「全然そぐわない 」 という大多数の正論に 私も与(くみ )するものです。
 って、そんなこと 言われるまでもなく 作曲者たるブルックナー自身が最もよく解っていることでしょう。晩年のブルックナーには、実は そういう言葉 (代わりに「テ・デウム 」を ・・・ ) を発しなければならなかった 彼なりの理由があったのではないでしょうか。それは、もはや音楽的構成など どうでもよくて、間違いなく 彼の 信仰上の動機 からだったのでは - と、スケルツォ倶楽部発起人の考えは 自然に 「そこ 」へと至りました。

アダムの創造
 「テ・デウム 」とは、神への感謝です。神に感謝し、神を讃える、とは いかなることか。
 は、かつて旧約の「ノアの箱舟 」の時のように 堕落した人間どもを もう一度 大洪水で滅ぼしてしまうことだって、なさろうと思えば、できました。にもかかわらず、ご自身が創造した人類への愛ゆえに は、何と ご自分の愛する子イエス・キリストを世に送り、罪深きわたしたち人類の身代わりとして 十字架上での苦痛の死を与えたのです。
 神の子たるイエスご自身も、父なるの愛と義を重んじ、罪なき身体であるにもかかわらず、従順に一身を犠牲に捧げてくださいました。
 その愛と赦しによって わたしたち人類の罪はそそがれ、しかも あろうことか永遠の命まで与えられ、救済を約束されたのです。わたしのために、あなたのために、世にも過酷な磔刑を耐えたキリスト・イエスの流した血と苦しみを象徴する十字架を信じ、に捧げる感謝の信仰告白こそが「テ・デウム 」なのです。

 皆さんは ブルックナーが、この最後の交響曲を献呈した相手を、ご存知でしょうか。 ・・・リヒャルト・ワーグナー ? ルートヴィヒ2世 ? いいえ、いずれも違います。
 正解第9番は 神に捧げられています。 交響曲をに献呈したという例は 極めてめずらしいことです。
 これは、ひとつの私的な仮説ですが - ブルックナー第9交響曲第3楽章で ( 意識していたにせよ 潜在意識下にだったにせよ ) 、そこで描いていたテキストとは 「キリストの十字架上の七つの言葉 」 だったのではないでしょうか。
 
 もし キリスト・イエスの壮絶な贖いの死アダージョ に続くべきフィナーレ楽章があるとすれば、それは 自身の死を意識する健康状態となっていた高齢のブルックナーが、その生涯最後に捧げようとしていたへの信仰告白、すなわち「テ・デウム 」 しかあり得ず、それゆえ 残された時間の中で もし第9交響曲フィナーレを完成させることが出来なかったら・・・ という不安な想像が 演壇に立つ作曲者の脳裏をよぎった瞬間、カトリック信者としての意識が、「わが交響曲第3楽章キリストの死 )で 終わらせることはできぬ 」、それなら 「代わりに 『テ・デウム 』 を ! - 」という 叫びになった -  ということだったのではないでしょうか。

ブルックナー 第9_カラヤン ベルリン・フィル DG ブルックナー 第9 ヨッフム ドレスデンSK EMI EAC-90086 ブルックナー 第9_バーンスタイン ウイーンフィル DG ブルックナー 第9_チェリビダッケ ミュンヘン・フィル EMI

第1の言葉
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは 自分が何をしているのかわからないのです 」

(ルカ伝第23章34節 )

楽譜 ブルックナー第9(父よ、彼らをお許しください~ )
▲ アダージョ冒頭、弦に現れるエモーショナルな旋律です。


十字架
楽譜 ブルックナー第9(十字架 )
▲ (ノヴァーク版 )第17小節目 練習記号A に現れる 金管(トランペットの突き刺すような信号風の動機と これに呼応するホルンの下降音型が、十字の形で立体交叉します - そこは「父よ ! 」という叫びを耳にした天なる「神 」が 地上の人間によって 磔(はりつけ )にされた 愛する息子の痛ましい姿を見おろした瞬間の衝撃を描写したものではないか、と仮に想像してみます。。。

Salvador Dali_Christ of St.John of the Cross
▲ そして 「天上から見おろした 」ということは、奇しくもダリSalvador Daliが描いた「聖ヨハネのキリスト 」Christ of St.John of the Cross - あの大胆な構図そのものです。
 神の子イエスを 人類の犠牲に供することを決めたのは もちろん自身のご意志でしたが、やはり 生きたまま手足を釘付けにされた 愛するイエスのお姿をご覧になられた時には きっとその目を覆われたのではないでしょうか。
参考 : ワルター/コロンビア交響楽団盤(01:48~ )、カラヤン/ベルリン・フィル1975年盤(01:48~ )、ヨッフム/ドレスデン・シュターツカペレ盤(02:21~ )、バーンスタイン/ウィーン・フィル盤(02:01~ )、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル盤(01:59~ )
 中でも ヨッフム/ドレスデンSK(EMI )盤の「十字架 」は、壮絶の一語。

 この十字架の周りを、 キリストが発した御言葉が音楽となって漂い、周回している、そんなイメージです。

第2の言葉
「あなたは今日 私とともに天国にいるでしょう 」

(ルカ伝第23章43節 )

楽譜 ブルックナー第9(あなたは今日 私とともにパラダイスに~
▲ (ノヴァーク版 )第45小節目 練習記号C から弦に現れる旋律は、ともに十字架刑に服している死刑囚を深く慰撫するようにも聴こえます。
参考 : ワルター/コロンビア交響楽団盤(03:59~ )、カラヤン/ベルリン・フィル1975年盤(04:48~ )、ヨッフム/ドレスデン・シュターツカペレ盤(05:20~ )、バーンスタイン/ウィーン・フィル盤(04:42~ )、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル盤(05:30~ )


第3の言葉
「母よ、ご覧なさい。あなたの子です 」、「息子よ、見なさい。あなたの母です 」

(ヨハネ伝第19章26節-27節 )

楽譜 ブルックナー第9(婦人よ、ご覧なさい~ )その1楽譜 ブルックナー第9(婦人よ、ご覧なさい~ )その2
▲(ノヴァーク版の楽譜 )第57小節目 練習記号D から 中低音域のピッツィカートに乗せて、二部に分かれたヴァイオリンが絡み合う美しい部分。
 この言葉には 若干の補足が必要と思われます。
 最初の「母よ~ 」とは、もちろん聖母マリアへの呼びかけですが、「あなたの子です 」とは、イエス自身のことではなく、マリアを支えて立っている使徒ヨハネを 指しています。その文脈から 次の「息子よ~ 」とは 当然ヨハネのことで、キリスト・イエスは、この若い弟子にこれから自分の母マリアの面倒をみてほしいと 老母の支援を依頼したのです。イエスの御言葉を聞いたヨハネは きっと 頭上の師イエスの目をみつめ、深くうなづいたことでしょう。
映画「新約聖書 ~ イエスと二人のマリア 」(2012 ジャコモ・カンピオッティ監督 )
▲ 映画「新約聖書 ~ イエスと二人のマリア 」(ジャコモ・カンピオッティ監督 2012年 )より 
 十字架を見上げる聖母マリア使徒ヨハネ 二人が流す涙を 二部に分かれたヴァイオリンが象徴する - と考えるのは、ちょっと出来過ぎでしょうか。
参考 : ワルター/コロンビア交響楽団盤(05:25~ )、カラヤン/ベルリン・フィル1975年盤(06:17~ )、ヨッフム/ドレスデン・シュターツカペレ盤(06:59~ )、バーンスタイン/ウィーン・フィル盤(06:19~ )、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル盤(07:40~ )


第4の言葉
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか ) 」

(マタイ伝第27章46節 )

楽譜 ブルックナー第9(エリ、エリ、ラマ サバクタニ~ )その1楽譜 ブルックナー第9(エリ、エリ、ラマ サバクタニ~ )その2
▲ (ノヴァーク版の楽譜 )第93小節目 練習記号Fから フォルティッシモの苦痛を伴った全強奏。聖書でも「午後 3時頃 十字架上のキリストが大声で(全地に響き渡っていくという意味 )叫んだ 」との記述あり、この楽想にも一致します。
 尚、イエスの言葉は 自分がに見捨てられたことを嘆くものではなく、その真意旧約詩篇22篇にある 神の預言の成就を指しているとされます。
参考 : ワルター/コロンビア交響楽団盤(09:34~ )、カラヤン/ベルリン・フィル1975年盤(10:22~ )、ヨッフム/ドレスデン・シュターツカペレ盤(11:28~ )、バーンスタイン/ウィーン・フィル盤(10:41~ )、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル盤(12:35~ )


第5の言葉
「私は渇く 」
(ヨハネ伝第19章28節 )

楽譜 ブルックナー第9(私は渇く )
▲ (ノヴァーク版の楽譜 )第140小節目、練習番号Kから 第一ヴァイオリンのフォルテが切迫感のある旋律を奏で、喉の渇きに耐えるイエスの言葉を代弁するようです。この言葉を聞いた一人の兵士が 槍の先にスポンジを刺すと酸っぱいぶどう酒に浸して イエスの口元まで運びますが、イエスは これをお受けにはなりませんでした。それは、前夜 十一弟子との「最後の晩餐」において、ご自身で「ぶどう酒は、多くの人の罪のため これから私が流す契約の血であるから 」、「神の国で新しく飲むその日まで 私は決して ぶどうの実から搾ったものは飲まない 」と言われたことが その理由だった筈です。
参考 : ワルター/コロンビア交響楽団盤(13:51~ )、カラヤン/ベルリン・フィル1975年盤(15:10~ )、ヨッフム/ドレスデン・シュターツカペレ盤(16:23~ )、バーンスタイン/ウィーン・フィル盤(15:25~ )、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル盤(18:22~ )


第6の言葉
「成し遂げられた 」
 
(ヨハネ伝第19章30節 )

楽譜 ブルックナー第9(成就された )
▲ (ノヴァーク版の楽譜 )第155小節目、練習番号Lから。天から降りてくるように静謐な、たいへん美しい弦の下降音型と これに応える 素晴らしいホルンの響きに恍惚とします。 もはや 音楽に「十字架 」は再現されません。遂にキリストは ご自分の使命を果たされ、十字架を 超越したからです。
 しかし ここから 終結部(コーダ )までの 「生への別れ 」 - 死に至る キリスト想像を絶する最期の苦痛が 音楽で極まります 。
参考 : ワルター/コロンビア交響楽団盤(15:05~ )、カラヤン/ベルリン・フィル1975年盤(16:48~ )、ヨッフム/ドレスデン・シュターツカペレ盤(17:48~ )、バーンスタイン/ウィーン・フィル盤(16:45~ )、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル盤(20:06~ )


第7の言葉
「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」

(ルカ伝第23章46節 )

楽譜 ブルックナー第9(父よ、わが霊を御手に委ねます )
▲ (ノヴァーク版の楽譜 )第231小節目、練習番号Xから。
「おどろくほど同じ量で流れるヴァイオリンの八度は、自然を超越した明るさの中で苦痛の祈りを捧げている。ホルンが、チューバ、トロンボーンとともに三和音を続けた後、不滅の権力は解決する(坂本良隆 ) 」
 - このコーダの美しさは、旧約聖書の預言すべてを成就し 「贖罪の業を完成 」させることによって 使命を果たしたキリストが、人として十字架の苦しみ から解放され 心の平安と安息の境地へ至ったかのように、私には聴こえるのです。
参考 : ワルター/コロンビア交響楽団盤(21:56~ )、カラヤン/ベルリン・フィル1975年盤(24:34~ )、ヨッフム/ドレスデン・シュターツカペレ盤(25:54~ )、バーンスタイン/ウィーン・フィル盤(24:51~ )、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル盤(28:50~ )


ブルックナー第9(4楽章 )インバル フランクフルト(Teldec) ブルックナー第9(4楽章 )ラトル ベルリン・フィル(EMI ) ブルックナー 交響曲第9番 ニ短調(RCA BMG)
 ・・・さて、その後 散逸した楽譜のスケッチを集めて これを基に補完/復元されたという「フィナーレ 」を、エリアフ・インバル/フランクフルト放送交響楽団(Teldec )盤や サイモン・ラトル/ベルリン・フィル(EMI )盤などで 私は耳にすることとなりました。 そこに鳴り響くサウンドは いずれもしっかりブルックナーっぽいです。復元者の時間をかけた労作でありましょう。演奏の説得力にも不足なく、音響的にも 素晴らしかったです。
 さらに ニコラウス・アーノンクールによるレクチャーも (その講演録音も ) たいへん興味深く 拝聴しました。 
 ご参照 ⇒ 過去記事 「ニコラウス・アーノンクールを悼み、夜どおし懐かしい名盤を ~ 」 
 
 しかし、その音楽に対する 「個人的な 」感想は、初めて聴く前に膨らませてしまった大きな期待感とは裏腹に あれほど崇高だった「アダージョ 」の高揚感に 一度は登り詰めた その高さから著しく失速した残骸を見下ろすような、残念な「違和感 」を 私にはどうしても拭えませんでした。これが、ブルックナーの第9の「フィナーレ 」として、本当に 晩年の作曲者が4年近くも心血を注いだ挙句 結局完成し得なかったという楽曲の姿なのでしょうか ? すみません、私の直観は これらを 「違う ! 」と断じていました。 残された断片、補完/復元された 音楽を拙いと言っているわけでは、決してありません。ただ 正直に申して、私には まだ どうしても受け入れることが出来ないのです。

こころ余りて ことば足りず、しぼめる花の色なくて にほひ残れるがごとし
( 在原業平の歌を評し 紀貫之が古今和歌集仮名序に著した言葉 )

 ― 結局 ブルックナーの「第9番 」は、第3楽章までで良かった のではないでしょうか。イエスの死第3楽章とすれば ) と、それに続く キリストの「復活 」から 「最後の審判 」まで包括する 「テ・デウム 」(フィナーレ? )= キリスト教の奥義 までをも 果たして本当に お前は理解し、信じ、受け入れているのか? という 重大な問い を 突き付けられているようでもあります。安易に返答できるものではありません。
 私は想像します。長い時間をかけ 壮大な第4楽章の構想を積み上げてきたものの、死を目前にした老作曲家は、フィナーレの出来が 自身の描いたヴィジョンに届かぬことに満足できなくなり 完成を躊躇して 立ち止まったのでは・・・ その結果、敢えて 完成させることなく 未完のまま 自身の死を迎えることを選択した、それこそが 悩みぬいたブルックナー潜在意識的な信仰 だったのではないか、という考えにさえ至る 今日この頃 - なのです。


▼ 最後に、冷たい秋雨の午後にちなんで もう一首 ご紹介・・・。

しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつ しづかなる釘音きけり
(塚本 邦雄 )



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シューベルトの肖像画 ミケランジェロ「ピエタ」バチカン
▲ 未完成」考(2013年10月投稿 )

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▲ キリストの 十字架磔刑の受難(2014年 4月投稿 )

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