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スケルツォ倶楽部 Club Scherzo

映画 「ヴェニスに死す 」 の意味
 ~ 39年ぶりの謎解き。

映画「ヴェニスに死す」 (6)

映画「ヴェニスに死す オリジナル・サウンドトラック
Luchino Visconti Presents The Original Motion Picture Soundtrack From The Film Death In Venice
   フランコ・マンニーノ 指揮 Franco Mannino
   ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団 Accademia di Santa Cecilia Orchestra
   マーシャ・プレディット (メゾ・ソプラノ ) Mascia Predit ・・・ 2
   クラウディオ・ギッツィ (ピアノ ) Claudio Gizzi ・・・ 4
   ルクレツィア・ウェスト (コントラルト ) Lucretia West ・・・ 5
   他
収録曲 : 
  1. Main Title: Theme From 'Death in Venice'
    マーラー:交響曲第5番~第4楽章 アダージェット(09:28 )
  2. Deserted Beach
    ムソルグスキー:子守唄(02:18 )
  3. Evening On The Veranda
    カンツォーネ Chi Con le Donne Vuole aver Fortuna (02:50 ) 
  4. The Salon & The Bordello
    ベートーヴェン:エリーゼのために (03:57 )
  5. Return To Venice
    マーラー:交響曲第3番~第4楽章 (11:16 ) 
  6. Death & End Title: Theme From 'Death in Venice' Reprise
    マーラー:交響曲第5番~第4楽章 アダージェット 抜粋 (02:15 )
▼ 音盤: Varese Sarabande (VSD-5357 )

映画「ヴェニスに死す」Original Soundtrack  グスタフ・マーラー

 こんにちは、“スケルツォ倶楽部発起人 です。
 今回の文章は、短い 「反省文 : 1976年、発起人(当時14歳 ) は 『ヴェニスに死す 』 を いかに誤解したか 」の 続きとなります。
未読のかた、よろしければ ⇒ まず こちらから どうぞ おつきあいください

 私 “スケルツォ倶楽部発起人、53歳を迎える誕生日を 翌々月に控えた、5月のとある休日の午後、ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死すDeath in Venice (1971年公開 )のDVDを買ってきて 自宅で鑑賞する機会を持ちました。これで生涯二度見です。
映画「ヴェニスに死す」 (13)

 初めて観た若い時には理解できず、拒否反応さえ感じた「ヴェニスに死す 」を ふと観なおしてみようと思った動機は、なぜでしょう、自分でもわかりません。

 ・・・で、先に結論から申し上げると、この映画が 「名作である 」 といわれる真実を 50を過ぎて 「初めて 」 私は 理解しました - 「理解した 」 などという言葉が 今さらおこがましいので 率直に 「感動しました 」 と言い直しましょう。
 中学生だった 私 発起人の目は、その当時 まったくの 「節穴 」 に過ぎなかったことを痛感しました。 かつてTV放送で 映画を 初見した子どもの頃には 不謹慎にもアクビを噛み殺していた、そんな態度で眺めていたエンディング - 逆光に輝き渡る砂浜の映像 - が、今では 逆に 魂が揺さぶられるほど美しい慟哭のあまり、ホント誇張抜きで、滝のように涙が溢れるシーン となりました。
映画「ヴェニスに死す」 (8)

 主人公が苦しい探究の末、生命(いのち )と引き換えに垣間見た真実の美を表現する壮大なフィナーレと、その果てに得た ( 同時に失った ) ものが わかった、という 感銘がいかほどだったかを、さあ 何にたとえたらよいでしょう。 モグリのゴンドラ漕ぎに 「リドまで上手くお連れしますぜ、旦那 」 と言われるなり 油断して後ろ向きに座っていた私 発起人の後頭部を 振り上げたオールで殴りつけられるくらいの衝撃だった - と言っても大袈裟に感じぬほど 私は 感動に「打ちのめ 」されました。

 ・・・ と 言っても、もともと この映画は「大人向け 」 だったのです。
 鑑賞者が若ければ若いほど、ましてや子どもなんかには 本来 容易に理解出来るような内容では なかったのです。ヴィスコンティ自身も 記者に答えた 何かのインタヴューで 「このテーマに取り組むためには、自分自身も成熟する時間が必要だった 」と述べているほど。
ルキノ・ヴィスコンティ スケルツォ倶楽部_ヴェニスに死す

 映画「ヴェニスに死す 」とは、ある程度の年齢(とし )を経て 自身の人生から 美しい大事なもの失ったり、諦めたり、手放したり、あるいは 愛着のある土地住まい離れたり両親心から愛する人別れたり ・・・ そういった 挫折人生経験豊富に重ねた人だけが、初めてその本質に深く共感できる映画だったのです。 お子様には もう最初から無理です。
 ・・・ さあ、それからが もう大変です。 図書館から トーマス・マン原作 ( 高橋義孝 / 訳、 新潮文庫 )を借りてくるは、DVDを 連夜 午前 3時まで繰り返し 50回以上は観るは・・・ (笑 )

■ いくつかの重要なシーンの 意味を考える
指揮台のアッシェンバッハ_映画「ヴェニスに死す 」
 ものがたりは、1911年 ( 音楽史的にも グスタフ・マーラーの亡くなった年 ) の夏、ミュンヘンの歌劇場で オーケストラのリハーサル中、持病の心臓発作を起こして倒れた多忙な作曲家グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、かかりつけ医から 「過労で心臓に負担がかかっている。 当分は仕事を離れて休養をとることが必要 」 と勧められ、静養の旅に 水の都ヴェニスの海浜ホテルを訪れることになります。

映画「ヴェニスに死す」 (5) 映画「ヴェニスに死す」 (7)
▲ さて、アッシェンバッハが 運命の美少年タッジオを ホテルのウェイティング・サロンで初めて見かけるシーンを、原作の文章から引用させて頂きましょう。
 ~ 十四歳ぐらいかと思われる少年がひとり、この少年は髪を長くのばしていた。この少年のすばらしい美しさにアシェンバハは唖然とした。
 蒼白く優雅に静かな面持は、蜂蜜色の髪の毛にとりかこまれ、鼻筋はすんなりとして口元は愛らしく、やさしい神々しい真面目さがあって、ギリシャ芸術最盛期の彫刻作品を想わせたし、しかも形式の完璧さにもかかわらず、そこには強い個性的な魅力もあって、アシェンバハは自然の世界にも芸術の世界にもこれほどまでに巧みな作品をまだ見たことはないと思ったほどである。
 ( 中略 )
 鋏(はさみ )を加えることを差控えたらしい美しい髪の毛は、「とげを抜く少年 」像そのままに額へ垂れ、耳を覆い、さらにうなじに伸びていた。 たっぷりとした袖が下へ行くに従って狭く細くなって、まだ子供々々した、しかし花車(きゃしゃ )な手の手首にぴったりとついている英国風の水兵服は、その紐やネクタイや刺繍などで、この少年のなよやかな姿にどことなく豊かで豪奢な趣を添えている。
 少年はアシェンバハに横顔を見せて、黒いエナメル靴をはいた一方の足を他方の足の前に置いて、籐椅子の腕の一方の肘を突いて、握った片方の手に頬を寄せ、ゆったりと、しかも不作法でなく坐っている
 (以下略 )
トーマス・マン / 原作、 高橋義孝 / 訳  新潮文庫より )

 原作の中で言及されている 興味深い「とげを抜く少年 」像とは、ローマカピトリーニ美術館に収蔵されている古代ブロンズ像(紀元前1世紀 )を指します。
カピトリーニ美術館蔵(ブロンズ)とげを抜く少年の像 カピトリーニ美術館蔵(ブロンズ)とげを抜く少年像
▲ 「とげを抜く少年 」像 カピトリーニ美術館 蔵 (ブロンズ )

■ ポールを くるんくるん
スケルツォ倶楽部_ヴェニスに死す
▲ 後年、ケン・ラッセルの 映画「マーラー 」でも パロディとして引用された 有名なシーン - アッシェンバッハの目の前で 赤い水着のタッジオが 砂浜に続く回廊に並んだ複数のポールを くるくる回ってみせる 子どもっぽい仕草・・・
 赤い水着の美少年が 自分のことを見つめながら 屹立する柱フロイト流に眺めると、これらが 何を象徴しているものか、おわかりでしょう ) の周りを回ってみせる意味深な動作、これは 実は現実のものではなく、内心の衝動を無意識に抑えるアッシェンバッハ心象風景だったのではないでしょうか。 それは、疫病が蔓延するヴェニスから避難するようタッジオの母に警告して感謝され、そのドサクサに紛れて 少年のきれいな髪を なでなでしてしまう「夢想 」のシーンと同様に・・・
スケルツォ倶楽部_ヴェニスに死す (4) ◀ 何故 (なで ) 
 
 人の無意識の世界夢の中で活発に活動する「真夜中 」をテーマにした、同じくマーラーの作品 第3交響曲 ニ短調 から第4楽章 が画面のオフから流れてきます。 その歌詞は ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき 」の 「真夜中の歌 」( 第4部第19章「酔歌 」から )・・・。

インスピレーション_0007 ニーチェ Nietzsche
「人間よ、注意して聴け。深い真夜中が何を語るか…。
眠っていた私は 深い夢から目覚めた。
世界の苦悩は深い・・・快楽は 心の苦悩より深い
そして すべての快楽は永遠を欲する、深い永遠を欲する… 」

 
 この楽曲に指定したマーラーの表示は「きわめてゆるやかに Sehr langsam、神秘的に Misterioso 一貫してピアニッシシモで Durchaus ppp … 」 
 たいへん不思議な雰囲気を持った歌曲(アルト独唱 )で、言葉少なげに物語を紡ぐ独唱アルトの隙間(ま )を 埋めるかのように 緩やかな深呼吸を繰り返す 宵闇のホルン・アンサンブルの響き のほうに 私は魅かれます。 うーん、それにしても この音楽映画サウンド・トラックに使う感性って・・・。

映画「ヴェニスに死す」 (2)
▲ また唐突に 場面転換、タッジオが ホテル内の無人のサロンに置かれたピアノに腰掛け、退屈そうに「エリーゼのために 」を ぽろんぽろんとつま弾くシーンと、これに続く 謎に満ちた 娼館の回想場面 - この意味について、考えました。

 ヴィスコンティ監督にとっては、ここで少年が弾く楽曲は 必ずしもベートーヴェンでなければ、というほどのものではなく、雰囲気さえ壊さなければ はっきり言って「何でもよかった 」ようです。 実際、このシーンの撮影時、「何かピアノで弾いてごらん 」とタッジオを演じた ビョルン・アンドレセン に要請したところ、しばらく考えた末に少年が音を探(さぐ )るように弾きはじめた無難な曲が この「エリーゼのために 」でした。 しかし実に当意即妙ではありませんか。多少でもピアノに心得のある人が楽器を前にして手慰み程度に奏でる楽曲として、これ以上 適切なピアノ曲は 思いつけないほどです。

ピアノから立ち上がるエスメラルダ(ヴェニスに死す )
▲ ・・・で、ここからまたも この映画特有唐突な回想シーンへの転換となります。
それは、お忍びで娼館を訪れ、順番を「待たされて 」いるアッシェンバッハ。彼にあてがわれるべき若い娼婦に、しわ枯れ声のマダムが声を掛けます。
エスメラルダ、空いてるかい ? 」
たどたどしく「エリーゼのために 」を弾くピアノの音が どこからともなく聞こえています。アッシェンバッハの記憶の中、サロンでタッジオが奏でる同じメロディが、この時の思い出につながったようです。
 その同じ「エリーゼ ~ 」が場面転換と同時に 調律の狂った安っぽい楽器の音へと変化していたことにお気づきでしょう。 それは、売春宿に置かれているほうのピアノの音です。

■  エスメラルダの 「衣装 」 と 「演技
 低いアップライト・ピアノの陰から ひとりの若い娘が小首を傾け、あら 次はどんな男の人が来たのかしら と覗いてみせる 可憐な仕草、一瞬 愛らしいと錯覚してしまいそうですが、これは「演技 」です。 娼婦エスメラルダの本性は、部屋のドアを 平気で足で蹴って閉めやがる、そんな下賤な態度にも表れています。
映画「ヴェニスに死す」 (4)
 言うまでもなく、彼女が身にまとっている美しいドレスも 「衣装 」 です。彼女は 自分の体を買った客に このドレスを脱いで見せるために着ているに過ぎません。

 このエロティックなシーンは、トーマス・マンの原作にはありません。
 ヴィスコンティ監督は、主人公アッシェンバッハのことを 健全な欲望を持つ一人の男性である( × 同性愛者などではなく ) という 重要な情報 を 私たち観客に伝えておくため、わざわざ 彼が買春に娼館を訪れる場面を 追加してみせたのではないか、というのが 私 発起人の ようやく辿り着いた、ひとつの仮説です。

議論するアッシェンバッハとアルフリート
▲ 潜在的には、芸術上の激論の相手である友人の作曲家アルフリートが ミュンヘンで主張していたことに影響を受け、 すなわち 自分自身を 「凡庸な芸術から脱却 」 させるため、ちょうど 「タンホイザー 」 のハインリヒヴェーヌスブルクに その身を投じたように、芸術家として 「個人の道徳とは無関係に 」、「官能に打ち負かされ、あらゆる汚れに身を晒(さら ) 」 したい - という衝動が、 すでにも失った 孤独な身の アッシェンバッハをして 娼館へ 向かわせたものかもしれません。 
 友人の音楽家 アルフリートは、シェーンベルクが モデルである と書かれている資料が多いですが、もし アッシェンバッハマーラーだとすれば、その年齢や互いの人間関係から 考察すると この人物は むしろ リヒャルト・シュトラウス に近いような気が、私にはしました。

幸福だった時代のアッシェンバッハ 
▲ そして、このフラッシュバックから 時系列的に考えてみると、アッシェンバッハ 愛妻愛娘と 北イタリアの山荘で 幸せに過ごしていた頃の 家族の回想シーン および ・・・ 
亡き娘を偲ぶ歌
▲ その後 夭折した愛娘の小さな夫婦で涙ながらに見送る悲しいシーン  ・・・ いずれも若いアッシェンバッハには口髭がありませんでしたが、この娼館訪れるシーンでは 鼻の下に薄く髭が生え揃って いますから、 少なくとも エスメラルダとのシーンは、彼が 愛娘を亡くして以降のエピソードで 間違いないでしょう。

■ 切られたフィルムの間に、何があったか ? 
 ヴィスコンティにとっては 残念なことに、次のシーンの真意は 結局 観客に伝わりにくかったように思えます。娼婦エスメラルダが ドアを蹴って閉めてから、モンタージュ手法によって 次は 同じ部屋の数十分後へ場面が切り変わってしまうわけですが、その「間 」に 一体何が起きたのかが だからです。

 髪をとき、ベッド上で両足を開いている 下着姿の若い娼婦の肢体が鏡に映っています。
 支払うべき 紙幣 をテーブルに置こうとするアッシェンバッハの手元をチラ見したエスメラルダ、一瞬 何かに驚いたような表情を浮かべ ・・・
あら、払ってくださるの?

 次の瞬間、男に微笑んでみせると その細い指を伸ばし、部屋を退出しようとするアッシェンバッハの手を堅く握りしめます。 その様子は まるで情事を終えた男女が、別れの名残を惜しんでいるように錯覚されそうですが、しかし よくご覧ください。そんな彼女の指を振りほどいてしまうアッシェンバッハの表情はと見ると苦悩に満ちています。何があったのでしょう、これは一体どういう意味でしょうか。
ヴェニスに死す「ゴメン できなくて 」「また お出でになってね 」

 アッシェンバッハは、若い娼婦抱かなかったのではなく、「抱けなかった 」 - いえ、はっきり言ってしまうと 「勃(た )たなかった 」 =「できなかった 」 と いうことではないでしょうか。 ・・・ そうです。女の若い肉体に触れなかった理由とは、彼が「高潔だった 」からではなく「高血圧だった 」から(笑 ) - すなわち、何らかのストレスか 血管の老化に起因する男性特有のED(勃起障害 ) だったのでしょう。 
 そう考えれば、若い娼婦 エスメラルダの最後の表情も 「よくあることよ。気にされないで・・・また来てね 」 と、払いのよい上客を気遣うベテラン娼婦の仕草であるようにさえ見えませんか。 しかし相手の女から そんなふうに慰められることが、不本意ながら こういう立場に置かれた男性の感情を最も傷つけるものだっていうこと・・・ でも こんなことも きっと お若い「元気な 」 男性諸君は まだ ご経験ないことではないでしょうか、想像もできないことではないでしょうか。 ゆえに この場面の意味も解らなかったのではありませんか、それは かつての私と同じ様に。
娼館のアッシェンバッハ(ヴェニスに死す )
 アッシェンバッハは、「ああ、もう俺も若くないのだな 」 と、自身の肉体の老いを痛感し、さらにその先に待つ 「 」 さえも おぼろげに 想ったのではないでしょうか。 そんな苦い思い出の場面のBGMとして 聞こえていた音楽が、エスメラルダの 弾く 「エリーゼのために 」 だったのです。
 そう解釈すると、他にも重要なことが さらにいくつか見えてくる気がします。

■ 今日のアッシェンバッハの姿は、明日のタッジオの姿
 ここまでお読みくださったかたには もう重ねて申し上げるまでもありませんが、まず アッシェンバッハ同性愛的嗜好などはありません。 この映画の宣伝解説などで 今でもたまに見かける、明らかに不適な解釈 「 老人が 少年に恋した 」 云々という言葉が誤解を拡散します。 
 アッシェンバッハは たしかに映画中で 「I Love You お前を愛している 」 と呟いていますが、これは タッジオ 個人 に対して 告白 などを したわけではなく、 タッジオに宿った 「美しさ 」 に対して、そして 自身がすでに失った 「若さ 」 に対して、あるいはそれら美しさ 」、「若さ 」 の輝きを 賛美する気持ちで いっぱいになったから溢れ、思わず 独白となって こぼれ落ちてしまったに違いないのです。

映画「ヴェニスに死す」 (21)

 逆説的ですが、トーマス・マンタッジオという 美しい存在 を 敢えて 「男性 」 に設定したことからも、それは明らかではありませんか。
 ご想像ください - 誰でも構わないのですが - アッシェンバッハが もしタッジオの姉のほう( を、もっと美しい少女をキャスティングし直す必要はあるでしょうが )に目を移してしまったと想像したら、ヴィスコンティ本来の真意は伝わらず、全然別の・・・たとえば「ロリータ 」のような、そのまんまなドラマになってしまうだけでしょう。

 彼は 少年タッジオ肉体を欲してなど いるわけではないのです。万歩譲って、よしんばそうであったとしても、すでに老いたアッシェンバッハ男性機能不能ですから。 彼の目的は、そんな所にはなかったのです。
 彼が、タッジオの姿の裡(うち )に 「見たもの 」 とは、少年の肉体の上に かりそめに宿った、いわば天から降臨した 今だけ限定の「美しさ 」そのもの でした。グスタフ・フォン・アッシェンバッハが 芸術家として 長らく追い求めてきたもの、それこそ 「究極の美 」 だったわけですから、人生を賭けて 追い求めてきた解答への重要なヒントを、彼は生涯の最期になって、静養先のヴェニスで出会った一人の少年の輝くような 「美しさ 」 の上に 見出したのでしょう。
映画「ヴェニスに死す」 (12)
 しかし その 「 」 は、時が経てばタッジオの肉体からも飛び去ることが約束されています。今は光り輝くタッジオ自身の肉体に宿っている 「」も 鮮度に賞味期間があり、その期限が過ぎれば 手放さなければならぬことを  実は彼自身は まだ知らないでしょう。 今日のアッシェンバッハの姿は 明日のタッジオの姿でもあるのです。

 そんな究極の美を 垣間見てしまったアッシェンバッハには さらに色濃く死の影が忍び寄ります。
 流行性の疫病コレラによって死の都と化したヴェニスは、アッシェンバッハ自身の滅びゆく肉体メタファーでもあります。
スケルツォ倶楽部_ヴェニスに死す (2)
▲ 観光業で成り立っているヴェニスの保健局は 疫病の蔓延をひたすら隠し、「腐敗 」を「取り繕う 」ように 異臭を放つ白い消毒液を 街中に散布させます。 

映画「ヴェニスに死す」
▲ 一方、進行する 「老い 」 を 「取り繕う 」 ように 死化粧のような あり得ない メイクを施されてしまう アッシェンバッハ白塗りの顔と、同じくらい真っ白な消毒液に浸されるヴェニスの街とが 視覚的にも 重なってくる ではありませんか。 けれど 「老い 」 も 「 」も 止めることは、決して誰にもできません。
 アッシェンバッハ死因は、持病の心臓病、血管症、過度のストレスに加え、直接は 流行性の急性コレラに感染したものと思われますが、実は 死因などは さして重要なことではなく、もともと アッシェンバッハは 療養先である このヴェニスの地死すべき運命にあって、彼が自分の「人生 」と訣別する最後の一瞬を迎えたとき、その掌からすべり落ちる間際の 生命(いのち ) - その輝くばかりの「美しさ 」 ( = まさに これを擬人化した存在が「タッジオ 」だった ? ) その本質を 初めて垣間見た、そんな最初で「最期 」の「出会い 」の瞬間ヴィスコンティが 映像で描いた、これは 一篇の詩であった、といってよいのではないでしょうか。

■ 砂時計の砂は みるみる 落ちてゆく - 
 さて、前後して申し訳ありませんが、この映画の最初のほうの ある場面を思い出してください。
 健康問題を抱え、静養を目的にヴェニスへ到着したアッシェンバッハが 最初にホテルの部屋へ案内された後、ミュンヘンで倒れたときのことを回想するシーンで、実は このドラマを理解する鍵ともなる重要な台詞が提示されていたことを ご記憶ですか。

砂時計の思い出を語る
▲ 「・・・わたしの父の家にも砂時計があった。砂の落ちる通路(みち )は非常に狭いので、最初のうちは いつまでも上の砂の量が減らないようにみえたものだ。砂が残り少なくなったことに気づくのは いつも終わりの間際だった。それまでは誰も殆んど気にしない。最後まで時間が過ぎて 気づいたときには、既に全部の砂が落ち切っていた・・・ 」

 この回想場面の背景では、アッシェンバッハの友人の音楽家アルフリートが、マーラーの「アダージェット 」を 邸のピアノで巧みに奏でています。 砂時計の中を上下に流れるは、一瞬の儚(はかな )さ停時の永遠とを対比させる相対的な小道具として 映画に登場しています。

 たとえば、主人公アッシェンバッハが ビーチの長椅子の上で最期の時を迎えるラスト・シーンが、まさしく砂の上であることは言うまでもなく、また 同じビーチ・サイドで戯れるタッジオの顔は 粗暴な男友達によって何度も砂まみれにされますが、スクリーンに映る泥だらけの顔は、お節介な母親家庭教師に わざわざ拭いてもらわなくても 不思議なほど「キタナイ 」という印象を観る者に与えません。それは、ダイアモンドに傷がつかぬように、いくら濡れた砂が泥になってタッジオの顔を汚しても 少年自身の美しさを損なうことは決してないからです。
 これは「美しさ 」が人間に宿る時間は ごく瞬時( すでに何度も書いているように、タッジオもまた年老いる )でありながら、「美しさ 」自体は 永劫不滅であるということを象徴しているように、私には思えます。

映画「ヴェニスに死す」砂時計
▲ 残り少ない砂時計が下へ下へと落ちゆくのを惜しむように 失われつつあるアッシェンバッハ自身の美しかった人生引き換えに得られた解答、それは、決して手にすることができないがゆえに美しい、死にゆく宿命を背負った「生命 」輝き美しさでした。
スケルツォ倶楽部_ヴェニスに死す (3)
▲ わが生命(いのち ) と引き換えに得る (失う ) ことになる 美なる存在の後ろ姿を追って、ヴェネツィアの街中を 徘徊しまくる 白面のアッシェンバッハ「美しさ 」 に執着する未練は傷ましいほど・・・  “スケルツォ倶楽部”発起人、50歳を過ぎて このシーンを 観ると、本心から 「ああ、わかる、わかるなー 」 と、もう涙が止まりません。 
 まさに人生を終えようとする 芸術家が 「美 」を追求する この姿、この死に物狂いのもがきを、ただの変態ストーカー オヤジ にしか見えなかった 14歳の時の自分理解の浅さ に ただただ恥じ入ります。

Young Dirk Bogarde Young Dirk Bogarde (2) Young Dirk Bogarde (5) Young Dirk Bogarde (4)
▲ 若き日のアッシェンバッハ( ? もちろん 俳優ダーク・ボガードですよ )のポートレートを数葉みつけました。 ご覧ください。

映画「ヴェニスに死す」 (22)
時よ止まれ お前は美しい ! 」 ( ゲーテファウスト 」 )

―  少年は髪を風になぶらせつつ、離れた海の中を、模糊として煙る果てしない海を背景に、ぶらぶらと歩いて行く。ふたたび立ちどまって少年はあたりを眺める。と、突然、ふと何事かを思い出したかのように、ふとある衝動を感じたかのように、一方の手を腰に当てて、美しいからだの線をなよやかに崩し、肩越しに岸辺を振返った。
 岸辺にあって少年を見守っていた男は、最初その砂洲から送られてきた灰色に曇った視線を受けとめたときは、もとの通り椅子に坐ったままであった。椅子の背にもたれていた頭は、ゆっくりと、海の中を歩いて行く少年の動きを追っていた。ところが今、彼は少年の視線に応じ答えるように、頭を起こした。と、頭は胸の上にがくりと垂れた。そこで目は下のほうから外を眺めているような具合だったが、彼の顔は、深い眠りの、ぐったりとした、昏々とわれを忘れている表情を示していた。 
 けれども彼自身は、海の中にいる蒼白い愛らしい魂の導き手が自分にほほ笑みかけ、合図しているような気がした。少年が、腰から手を放しながら遠くのほうを指し示して、希望に溢れた、際限のない世界の中に漂い浮んでいるような気がした。すると、いつもと同じように、アシェンバハは立ち上がって、少年のあとを追おうとした。
映画「ヴェニスに死す」 (9)
 椅子に倚って、わきに突っ伏して息の絶えた男を救いに人々が駆けつけたのは、それから数分後のことであった。そしてもうその日のうちに、アシェンバハの死が広く報道されて、人々は驚きつつも恭しくその死を悼んだ。

トーマス・マン / 原作、高橋義孝 / 訳 新潮文庫より )


■ グスタフ・マーラー 「アダージェット 」
楽譜 マーラー_アダージェット冒頭(音楽之友社 )
▲ 交響曲第5番 嬰ハ短調 ~ 第4楽章 アダージェット Adagietto
(非常に遅く Sehr langsam ) ヘ長調 4 / 4拍子、三部形式

 スケルツォ倶楽部 会員の皆さまには 今さら 説明不要の名曲
 ハープ弦楽オーケストラのみで演奏される、静謐感に満ちた美しい楽章。
 中間部で 第1ヴァイオリンに現れる旋律が フーガ的な要素を持つ第5楽章の中でも ほぼ同じ姿で再現されますが、これら第4楽章第5 楽章 二つの関係を、J.S.バッハ平均律クラヴィーア曲集等における「前奏曲とフーガ 」の関係と類似性を述べる人もいます (音楽之友社 ミニチュアスコアの解説を参照 )。

スケルツォ倶楽部オススメの
アダージェット 」 名盤を、いくつか 聴く。

クラシック・プレス創刊二周年記念号
▲ ウィレム・メンゲルベルク 指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
演奏時間:07:07
録  音:1926年
音  盤:Columbia / 復刻 クラシックプレス(2001年秋号付録CD )
付録CD 併録曲 :
「ルスランとリュドミーラ」序曲(グリンカ )ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 / オデオン大交響楽団 (11.Apr.1933 )、 「幻想交響曲 」第2楽章「舞踏会 」(ベルリオーズ )エウゲニ・ムラヴィンスキー指揮 / ソビエト国立交響楽団 (1949 )、 歌劇「魔笛 」序曲(モーツァルト )ジョージ・セル指揮 / 大交響楽団 (22.Sep.1924 )、 「トルコ行進曲 」(モーツァルト ~ ヘルベック編 )カール・アルヴィン指揮 / ウィーン・フィル (9.Sep.1929 ) 、 「フィンランディア 」(シベリウス ) ヘルマン・アーベントロート指揮 / ベルリン国立歌劇場管弦楽団 (1936.10.01 )、喜歌劇「こうもり 」序曲(J.シュトラウスⅡ )ブルーノ・ワルター指揮 / ベルリン国立歌劇場管弦楽団 (10-11.Jan.1929 )、 「ユモレスク 」(ドヴォルザーク )ヴァーツラフ・スメターチェク指揮 / FOK交響楽団 (29.Oct.1941 )、 序曲「フィンガルの洞窟 」(メンデルスゾーン )ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 / ベルリン・フィル (1930 ) 、 「コリオラン 」序曲(ベートーヴェン )カール・シューリヒト指揮 / ベルリン市立管弦楽団 (Jun.1942 )
コメント: マーラー自身の評価はワルターより高かったとも伝わる メンゲルベルクによる貴重な 「アダージェット 」 レコーディング。随所にストリングスの 押さえた音を引っ張り上げる濃厚なポルタメントが聴かれます、特に後半になってから弦楽器奏者たちの指が 一斉に弦を擦り上げ 擦り下ろす動きがあまりにも凄まじく、テンポも信じられないくらい速いし、当時のスタイルを今に伝える貴重な録音でしょう。SP盤からの復刻ゆえ 03:16辺りで複数のディスクを 繋げたことが判ります。
マーラー アダージェット ガット弦によるHMD
▲ 尚、参考までに 1995年に ガット弦を歴史的楽器に張ったスミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ ( ケネス・スロウィック指揮 )、100年近い昔のメンゲルベルクの解釈で「アダージェット 」を再現しているレコーディングがあるのですが、一聴をオススメします。 必ずメンゲルベルク録音を事前に聴いてからご鑑賞くださいね。

ワルター_マーラーアダージェット_オーパス蔵
▲ ブルーノ・ワルター 指揮 
ウィーン・フィルハーモニー
演奏時間:07:57
録  音:1938年
音  盤:Columbia / 復刻 OPUS蔵
コメント:
凄まじいメンゲルベルク盤を聴いた後だと 誰の演奏を聴いてもホッとしますが、特にワルター / ウィーン・フィルのレコーディングは すでに現代の演奏の基礎を築いた歴史的な記録ですよね。後にCBSでワルター第5をモノラルで全曲録音しますが、アダージェットの解釈は このウィーン・フィル盤と基本的に同じ。速度は速いですが、決して情感を失わない立派な名演と思います。ああ、それにしてもワルターには ぜひステレオ録音で第5番を残しておいてほしかったものです。

バーンスタイン_マーラー第5交響曲_CBS
▲ レナード・バーンスタイン 指揮 
ニューヨーク・フィルハーモニック
演奏時間:11:00
録  音:1963年
音  盤:CBS-Sony
コメント:
ヤング・バーンスタイン最初のマーラー全集からの録音。この旧盤は甘さを排した 険しい弦のアンサンブルが特徴で、特に低音弦の弾力ある刻みがフォルティッシモでは凄まじい効果を上げています。

マーラーの高速 第5交響曲(フランス国立放送管弦楽団 )
▲ ヘルマン・シェルヘン 指揮
フランス国立放送管弦楽団
演奏時間:13:04
録  音:1965年 ライヴ
音  盤:HMF
コメント:
あの悪名高いズタズタ・カット版で大ブーイングのライヴ録音。正直 普段は 異形の第3 ・ 5楽章 ばかりを抜き出しては 笑って聴いていましたが (失礼 ! ) 改めてちゃんと聴いたら ノー・カットの 「アダージェット 」は超低速、シェルへンらしからぬ( ? )情感も豊かで弦全体がうねる動きと爆発的な迫力にも事欠かない、意外な佳演でありました。

バーンスタイン_ファースト・パフォーマンス_リンカーン・センター・オープニング・ガラ・コンサート1962
▲ レナード・バーンスタイン 指揮 
ニューヨーク・フィルハーモニック
演奏時間:11:19
録  音:1968年6月、ロバート・ケネディ葬儀における実況
音  盤:CBS-Sony
コメント:
特殊な環境下における演奏ゆえに 振幅の大きな、ドラマティックなアダージェット。クライマックスでは弦は一斉に叫ぶよう。逆に教会は静まりかえる、そんな厳粛な雰囲気が 封じ込められたサウンドから想像できます。

バルビローリ_マーラー第5交響曲_EMI
▲ ジョン・バルビローリ 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
演奏時間:09:52
録  音:1969年
音  盤:EMI
コメント:
正直 他の楽章ならバルビローリ以上に好む演奏はいくらもあるのですが、こと「アダージェット 」に限っては 中低音域の豊かな充実度と心のこもった美しい歌が存分に聴ける、この一枚を 外すことはできません。

映画「ヴェニスに死す」Original Soundtrack
▲ フランコ・マンニーノ 指揮
ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団
演奏時間:09:28
録  音:1970年
音  盤:Soundtrack from“Death In Venice”(Varese Sarabande)
コメント:
特に期待もせず聴き始めたところ、途中 38小節目(03:59 ) - 第一ヴァイオリンの「G線で 」とマーラー自身が指定した個所(フォルテになる辺り ) - 以降、音楽に急速に熱が通って、あっという間に ホント驚くほど濃い口の表情へ彩られます。そこは mit Wärme(暖かさをもって or 親しみを込めて )、まるで胸を大きく膨らませながら 途切れ途切れ 初めての告白に言葉を選ぶ美しい乙女の呼吸に耳を澄ますようです。
さらに 躊躇(ためら )うような高音弦の響きは、後年の繊細極まるバーンスタイン/ウィーン・フィル(D.G. )盤を先取り。感嘆しますよ。

Solti Mahler No.5 (KING KICC‐8433)
▲ ゲオルク・ショルティ 指揮
シカゴ交響楽団
演奏時間:09:47
録  音:1970年
音  盤:Decca-LONDON
コメント:
緩徐楽章にもかかわらず弦の力強いボウイングが良く歌い、気持ちよくメリハリを効かせた演奏、各弦とハープそれぞれの動きをしっかり分離して捕えた録音も耳に心地良い、素晴らしい一枚です。

Karajan_Mahler.jpg
▲ ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮
ベルリン・フィルハーモニー
演奏時間:11:53
録  音;1973年
音  盤:D.G.
コメント:
磨き抜かれた高級な調度品を思わせる仕上がり。劇的な起伏にも不足なく 特に最後の係留音を思い切り長く引っ張っておいて低音弦が締める呼吸は比類ない格好良さです。大好きですね、カラヤン

マーラー第5番 レヴァイン フィラデルフィア管弦楽団 RCA
▲ ジェイムズ・レヴァイン 指揮
フィラデルフィア管弦楽団
演奏時間:12:02
録  音:1977年
音  盤:RCA
コメント:
弦楽オーケストラのダイナミックな起伏が素晴らしいアダージェット。逆に弦の人数を減らす指示のある個所での室内楽的な音響のヴィブラートも美しく心に残ります。第5番は(10番を別格とすれば )レヴァインマーラーでは最高傑作ではないでしょうか。

テンシュテット_マーラー第5_FM東京
▲ クラウス・テンシュテット 指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
演奏時間:12:05
録  音:1984年
音  盤:東京FM (TFMC0015 )
コメント:
夭折したテンシュテットの素晴らしい「第5 」が聴ける音盤はEMIにスタジオ盤(1978年 )とライヴ盤(1988年 )の二種ありますが、いずれもこのカリスマ指揮者のマーラーへの適性の高さを思い知らされる凄演です。おススメの このディスクは、同オケとの来日公演(大阪 )、「アダージェット 」が発散する情念が尋常でなく、そのまま最後まで聴き通したくなってしまいます。

バーンスタイン_ウィーン・フィルマーラー第5
▲ レナード・バーンスタイン 指揮
ウィーン・フィルハーモニー
演奏時間:11:12
録  音:1987年
音  盤::D.G.
コメント:
打ち震えるように切なく繊細な弦の響き、フォルティッシモではスケールの大きさが際立ち エモーショナルで もうたいへんなことになっています。フレーズひとつひとつが深く考え抜かれ、時に息苦しくなるほど力の入った演奏。マーラー好き なら どなたも よくご存知ですよね。

プレートル_マーラー第5交響曲_
▲ ジョルジュ・プレートル 指揮
ウィーン交響楽団
演奏時間:11:21
録  音:1991年
音  盤:Weitblick
コメント:
意外な掘り出し物でした。 ライヴならではのとても情感豊かな内容。厚みのある弦のアンサンブル。その精度は 必ずしも高くないですが、それゆえ どこか草書的な勢いもあって、私は 結構好きです。

ブーレーズ_マーラー第5交響曲_DG
▲ ピエール・ブーレーズ 指揮
ウィーン・フィルハーモニー
演奏時間:10:59
録  音:1996年
音  盤:D.G.
コメント:
透徹したウィーン・フィルの弦、それも弱音の美しさが印象深い名演。D.G.ブーレーズマーラーには不満は全く感じないんですが、不満のないところが不満とでも言いますか・・・  かつて 鋭い氷の剣のようだったCBS時代の 「嘆きの歌 」やバルトーク、ラヴェル、シェーンベルク、ベルク の演奏ほどにはどうしても没入できないです。聴く側であるのほうに 聴き取る能力が足りないんでしょうけど・・・ 。

ブルネロ_ダルキ・イタリアー_フィルム(マーラー アダージェット収録 ) ダルキ・イタリアーナ
▲ マリオ・ブルネロ 指揮 
ダルキ・イタリアーナ (2002年 )
演奏時間:12:39
録  音:2002年
音  盤:Victor アルバム「フィルム 」
収録曲 : 弦楽のためのアダージョop.11 (バーバー )、ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのノスタルジア〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に (武満徹 )、トリスティング・フィールズ (ナイマン )、弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ 」 (ヤナーチェク )、交響曲第5番 嬰ハ短調〜第4楽章 アダージェット (マーラー )
コメント:
1986年にチャイコフスキー・コンクール・チェロ部門優勝以来 世界的に活躍するイタリアの名チェリストが2000年に組織したユース・オーケストラによる演奏。情感も起伏も豊か、美しく均整のとれた堂々たる名演に驚きます。ブルネロには ぜひフルオケで第5番全曲を振ってもらいたいものです。

ノリントン_マーラー第5_Haenssler
▲ ロジャー・ノリントン 指揮
SWRシュトゥットガルト放送交響楽団
演奏時間:08:54
録  音:2006年
音  盤:Hänssler
コメント:
 ノリントンらしくノン・ヴィブラート奏法のおかげで 弦の美しい透明度が増した、一聴の価値ありの新しさです。弦とハープの分離も良く、耳に心地良く染み入る音響。今の私なら、まずノリントン盤の個性的な演奏を 心から楽しみに、繰り返し聴きたいですね。

 すみません。 
 実は 他にも 自宅のCD棚に眠っている 所蔵盤についても 一言ずつ コメントを 入れるつもりで準備 ・・・
▼ ヴァーツラフ・ノイマンラファエル・クーベリックとか、
マーラー_交響曲第5番 ノイマン_チェコ・フィル  クーベリック_マーラー第5_DG クーベリック_マーラー第5_Audite

▼ ロリン・マゼールとか、小澤征爾、リッカルド・シャイー ・・・
マゼール_マーラー全集_sony 小澤征爾_マーラー第5番 ボストン(Philips ) マーラー 交響曲全集 シャイー_コンセルトヘボウ管弦楽団、ベルリン放送交響楽団

▼ それから インバル、ラトル、ファビオ・ルイージ
なども 準備していたのですが・・・
インバル_マーラー交響曲第5番 ラトル_マーラー第5交響曲_EMI ルイージ_マーラー第5

 はー、今日は さすがに 発起人 疲れ果ててしまいました。 もういいや、ここまで読んでくださって 感謝です。 また いつか・・・


▲ 駆け足10分で観る 映画「ヴェニスに死す

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コメント

NoTitle

お便り いつもありがとうございます。
木曽のあばら屋さまの 実は「熟女好き 」なる一語に、今 うちの妻が萌えています(笑 )。
あばら屋さまの鋭い視点、タッジオの「存在自体が アッシェンバッハの病んだ精神が作り上げた幻 」説 - これ、十分ありと思いました(拍手 )。
で、これも実は 「先に死ありき 」だとすれば、アッシェンバッハにとって、タッジオの存在とは、もしかしたら シベリウスの 「悲しいワルツ 」 における、床に伏す病母の 幻の「踊りの相手 」のような存在だったんじゃないかなあ・・・なんて 考えつきました。 タッジオの存在についていろいろ思いを巡らすことは、とても興味深いですね。

URL | “スケルツォ倶楽部”発起人 ID:-

むつかしい映画です

こんにちは。
「ベニスに死す」の詳細な分析、興味深く拝読しました。
抗いがたい美しさをたたえた映画であることは否定できませんが、
熟女好きな私にはいささか理解困難な作品であります。
そもそもタッジオの思わせぶりな視線がいかにも不自然で、
彼の存在自体がアッシェンバッハの病んだ精神が作り上げた幻なのでは?
と思ってしまうほどです。
アッシェンバッハが最後で死ぬ意味も、ドラマトゥルギー的にどうも腑に落ちなくて・・・。
なぜ彼は死ななければならなかったのか・・・?
まあ原作がそうなっているので是非もありませんが。
近いうちに観かえしてみます。

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