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ブリテン : 歌劇 「ねじの回転 」 The Turn of the Screw
(原作:ヘンリー・ジェイムズ )
 - 本当はもっと怖い真相 

benjamin britten (8) U2_Songs Of Innocence Henry James
▲ 左右は 作曲者 ベンジャミン・ブリテン と原作者ヘンリー・ジェイムズ
   中央 アイルランド 出身の バンド U2 の 今年(2014年 )リリースされたアルバム 「 ソングス・オブ・イノセンス 、CDジャケットは、マイルズ ピーター・クイント の関係を連想させます。
U2 「ソングス・オブ・イノセンス 」
音  盤 : UICI-1136
収録曲 : The Miracle (of Joey Ramone )、Every Breaking Wave、California (There Is No End to Love )、Song for Someone、Iris (Hold Me Close )、Volcano、Raised by Wolves、Cedarwood Road、Sleep Like a Baby Tonight、This Is Where You Can Reach Me Now、The Troubles


第二幕 第1場「対話と独白 」

 古今東西 他に類を見ぬオカルト・オペラの、いよいよ第二幕となります。後半は、場を重ねるごとに カタストロフィの 深い奈落へ滑り落ちてゆく怖さに ぐんぐん加速度がついてきます。
 掲げられた表題の「対話 」とは、亡きピーター・クイントミス・ジェスルという二人の死霊が交感する「会話 」のことであり、 「独白 」とは、女性家庭教師が 問題の解決への糸口がつかめず 出口さえ見えない状況を まるでラビリンス(迷路 )の中に迷い込んでしまったようだ、と思いつめ 苦悩する独唱部分のことを指します。

 その前に、まずは前奏曲・・・ 室内オーケストラが 異空間を表現する不気味な和音を浮かび上がらせると、死霊 ピーター・クイント前幕第8場「夜 」マイルズの名を呼びながら少年を覚醒させようとした、あの旋律をクラリネットが繊細に再現します。
楽譜 ねじの回転 クイントの招聘の声
 次いで 二台のヴァイオリンが互いに絡みつき合う - それは まるで生前のクイントジェスル先生と隠れて情交する姿を表現する - かのような妖しいグリッサンド。続く技巧的なフルート・ソロは 奔放なクイントの霊が時空を超えて飛翔する有様でしょうか。室内楽編成の弦が 夜の静寂を表すと、掻きむしるように荒れ狂うハープの激情、その直後 ミューテッド・ホルンによる信号風の動きと、これを遮(さえぎ )って 三度 全合奏によってフォルティッシモの鉄槌が下ります。足元に忍び寄ってくる低音域から 今度はオーボエによる短いソリスティックな動き・・・ やがて静かに轟(とどろ )くティンパニの皮が震える繊細な響きの美しさにも 耳を澄ませましょう。

Miss Jessle Castleton Festival_Turn of the Screw 2009
▲ 闇の中に現れる、全身びっしょり濡れたミス・ジェスルの姿 ( Castleton Festival_Turn of the Screw 2009 ) 。
 死霊となった彼女の深い後悔は、なぜ 身分も品性も卑しいピーター・クイントなんかに 身も心も許してしまったのか、ということに違いありません。
 ああ、お前のような男と出会わなければよかった。出会ってしまったばかりに 世間連れしていなかった初心(うぶ )な女の身の弱さ、易々と騙され 男の誘惑に乗ってしまったばかりに 一時の悦楽と引き換えに 教師としての名誉も失い、わが身の破滅を招いてしまった・・・
 原作では ジェスル先生の直接の死因は、謎のままでした。
 モノクロ映画「回転 」では、クイントのほうが先に逝ったことになっており、精力絶倫な男の虜になっていたジェスル先生は そのクイントの後を追って湖に入水自殺したことが、グロース夫人が語る言葉に仄(ほの )めかされています。
 また マイケル・ウィナーによる前日談「妖精たちの森 」で描かれているところでは、舟底に穴が開いたボートとともに湖に沈み 溺死したジェスル先生の 変わり果てた腐乱死体にショックを受け、深酒をあおって泥酔した挙句に 死を迎えることになるのは、クイントのほうでした。
 ブリテン( と マイファンウィ=パイパー )による オペラ版 「ねじの回転 」の中には、ジェスル先生の死霊が 「地獄にわたしが落ちた時、お前は何処にいたのかしら 」 と クイントを詰問している台詞がありますから、どうやら彼女は「生前 」は愛人の死を知らなかったようですね。でも 死して なおクイントの身体に執着を残している 複雑な女心 ・・・。

 一方 クイントのほうですが、こちらは驚くべきことに、自分自身が死んだことを 全く意に介しておらず、むしろ「生き生きと 」しています。 死んだ自分と生者を中継してくれる「友を求めているのだ 」 などと、ミス・ジェスルに 嬉々として語るのですから。
 その「 」 とは、生前 親しい関係を築いていた 幼いマイルズのことであると考えて 間違いないでしょう。
ねじの回転_マイルズ フローラ_ねじの回転
▲ マイルズフローラのイメージ(映画「回転 」より )

 クイント死霊 - というより、もはやその目に見えぬ存在は 軽やかな 「ピーター・パン 」 を思わせる「妖精 」 です - は あたかも舞い踊るような音楽に乗せて歌います。「 」たるマイルズのことを、自分の「導くまま従順に従い、手品使いの助手のように 」おのれの「思想を巧みに捉え 」、「誇りを持ち、好奇心に溢れ、敏捷な 」存在であること、そして 彼自身の「高まりゆくパワーを養ってくれるだろう 」と期待し、「やがて その友の光輝に満ちた奉仕に答えクイントが憑依した「絶望的な情熱 」を解き明かす瞬間が来れば、「その時こそ 無垢の祭典は終わるのだ柴田南雄 / 訳 )The ceremony of innocence is drowned 』 」と、叫ぶのでした。

楽譜 ねじの回転_The ceremony of innocence is drowned
 ・・・ The ceremony of innocence is drowned - この呪文のような言葉、 一体どういう意味でしょう。詳細は この後で。

 で、また一方、「ティンカー・ベル 」ならぬミス・ジェスルも、残念ながら、その死後も変わらずクイントに いまだ感化され続けているらしいです、その前世に悔怨を残していたことは 確かですから。
 クイントに続いて 彼女も叫びます、「わたしにも 自分の悲しみを分け合える ひとつの魂が必要なの 」。「喜びを失くした わたしの霊は、永久に捕われている - 『無垢の式典が 終わりを告げる そのときまで ! 」
二人の幽霊は声を揃え、呪文のような言葉を 繰り返し 絶叫します。


■ この場面 - 幽霊の会話 - は、 原作にはない
 この第二幕第1場「対話と独白 Colloquy & Soliloquy 」 は、歌劇中 十五場にも細かく設けられた「 」の中で 唯一原作のどこにも該当するシーンが存在しない - すなわち ブリテンと 脚本担当マイファンウィ=パイパーによる創作である - ことによって、歌劇の初演当初から賛否両論ある場面でした。
 しかも ヘンリー・ジェイムズの原作においては「いるのかいないのかさえわからないように 」慎重に曖昧な存在とされていた二人の死霊が 堂々と舞台に登場するばかりか 声を張り上げて歌いまくることに対し、違和感を覚える鑑賞者がいたとしても 理解できぬことではありません ( って、二重否定の肯定文です )。

 舞台芸術たるオペラでは 原作の象徴的な要素を表現しようとしても やはり限界があります。ゆえに、敢えて 原作の魅力だった「曖昧さ 」という要素を削ぎ落としてまでも「ブリテン( と マイファンウィ=パイパー )が 伝えたかったこと・表現したかったこと 」 とは、実は 黙って静観していたら まさに そのまま滑り落ちてしまう 主人公の家庭教師子どもたち が 気づかずに 向かいつつある危機、すなわち「 もっと怖い真相 」への警告であったに違いない - と、スケルツォ倶楽部発起人は 考えています。
 
 なぜなら、ブリテンが この場面 - 第二幕第1場 - に付した音楽的緊迫度の強さたるや凄まじく、とりわけ この場のクライマックスにおいて 二人の死霊The ceremony of innocence is drowned(無垢の祭典は終わる )と、声を揃えるときの切迫感に、もし感銘を受けたり共鳴を感じたりすることができた人であれば( 実際に舞台に接する機会があれば猶のこと )、決して忘れられなくなってしまう トラウマのような体験として記憶に残るほどのテンションの高さであるからです。


■ 「ザ・セレモニー・オブ・イノセンス無垢の式典 ) 」 とは 何か
William Butler Yeats
▲ この謎めいた一行は、アイルランドの文芸復興で重要な役割を果たした神秘主義の詩人 ウィリアム・バトラー・イェイツ William Butler Yeats (1865 – 1939 )によって書かれた「再臨 The Second Coming 」(1919年 )という難解な詩の中の一節であることが知られています。
 イェイツの詩は 第一次世界大戦後の不況に悩む 不安定なヨーロッパの姿を、新約聖書の「ヨハネによる黙示録 」の中で予言された、キリスト・イエスが再臨する前の不穏な世界になぞらえたものです。世界のあらゆることは解体させられてしまい、物事は中心を保てず、世界を無秩序が覆い尽くします。血に濁った洪水が地上を襲い、いたるところで 「無垢の典礼が沈む The ceremony of innocence is drowned 」 ということが綴られています。
 すなわち これは、ある物事が大きな変化を遂げる時に 壊れたり失われたりするほどのドラスティックな変貌を遂げることが、その意味するところであるようです。その大きな変化が起きてしまった後から振り返って眺めてみると、変化する前のかつての在り様などは innocent (無垢で純情な : 子どもっぽい ) ceremony(セレモニー : 儀式、式事、祭典 )に過ぎなかった - ということではないか。 「セレモニー 」とは、仰々しいけれど 実体もなく 実効もない 儀式のことでしょうか・・・ あっ ! って、ここまで考えて 突然 スケルツォ倶楽部発起人、膝をたたいて わかったような気になりました。


■ 「ねじの回転 」 の 「もっと怖い 真相 」について
 それは、なぜベンジャミン・ブリテンが このオペラ「ねじの回転 」第一幕の要所要所で、聴衆に 無垢な子どもたちが 遊び戯れるシーンを 繰り返し 見せつけてきたのか、その真の意味・意図 が、 突然 頭の中で紐づいたからです。
 第3場「手紙 」では、マイルズフローラは「ラヴェンダーの王様と女王様ごっこ 」で 夫婦を演じていました。
 第5場「窓 」でも 二人マザー・グースの「笛吹きトムごっこ 」に 遊び興じています。
 第6場「授業 」で、妹フローラは 兄マイルズのお勉強の「お手伝い 」をすることに飽き、「戦闘馬車 に乗った女戦士ブーディカごっこ 」を始めようとします。
 第7場「湖 」でも、フローラは 抱いていた人形を寝かしつけようと子守唄を歌いました。
 それから・・・思い出してください、前回 ご紹介した マイケル・ウィナー監督の「妖精たちの森 」 における 鋭い慧眼、兄妹 - もとい、 ここでは 逆転した「姉弟二人は、映画の冒頭で ピーター・クイントと 「鬼ごっこ 」に興じながら館の庭園を走り回り、そればかりか、ストーリーの中盤では 前夜 覗き見したクイントジェスル先生との 夜の行為 を 真似して「セックスごっこ 」、「SMプレイごっこ 」 に ぎこちなく興じていたことを。。。
 これらは、すべてが「ごっこ遊び 」= 実体・実効の無い儀式 ( セレモニー ) に過ぎなかったのです !

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シュローダーとルーシー

 そのように考えると、クイントミス・ジェスルという 二人の死霊が ひたすら待ちかまえている時とは - The ceremony of innocence is drowned 「子どもっぽい ごっこ遊び 」が 終わりを告げる時 - すなわち 子どもたちが ごっこ遊びに 飽きる時 であり、さらに 追求すると、その瞬間とは マイルズ と フローラ が 「大人になる時 」 だったのではないでしょうか。
 
 これは、子どもたちの身体が 脳下垂体の「性腺刺激ホルモン 」分泌の働きによって目覚め始め、少しずつ大人の身体へと成長している事実と 無関係ではありません。
おとこのこ、おんなのこ 
 10歳のマイルズ精巣では そろそろ「男性ホルモン 」がつくられるようになり、ある朝 少年は 突然 精通が訪れたことに気づくでしょう。いえ、もうすでに「訪問 」済みかもしれません。 また 8歳になっているフローラの身体のほうも 間もなく その胸はふくらみ始め、腰まわりも丸みを帯び、そして初経を迎えることになるでしょう。
 そうです。口にすることも憚(はばか )られることですが、クイントミス・ジェスル 二人の死霊 が 待ちかまえている「 」とは、実は 二人の子どもの 「身体が 」 大人になる セックスすることが可能な身体へと成長を遂げる日だったのです。 もはや 「ごっこ遊び 」 に非(あら )ず、その時は 本当のセックスです。

 The ceremony of innocence is drowned ・・・ 二人の死霊は こういう意味で 歌っていたのです。
吊り橋  時雨茶臼 ▶ R-18 (成人向きです、ご注意ください )
 クイントの霊は少年 マイルズの身体に、ミス・ジェスルの霊は少女 フローラの身体に それぞれ憑依することによって、彼ら男女が 生前ひそかに交わしていた 忌まわしい肉体関係を 今度は 生者の ( しかも 天使のように清らかな子どもたち の )身体を「使って 」 もう一度 楽しむことを企てている、そう、死者が 再び 生の悦楽に浸ろうというのです、 これは 幼い兄妹に近親相姦させることにもなります・・・。 とうてい許すことはできません。
 
 オペラの原作となるヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転 」は、その出版当時(1898年 )から 雑誌や新聞の一部から、「魂が汚される邪悪な物語 」、「かつて英語で書かれた もっとも忌まわしい物語 」などと 過剰なほど強い酷評を受けてきました。その理由とは、ただ 「怖い 」という感覚以上に、おそらく上記に述べたような、呪わしく おぞましい 発起人の 推察 が 外れてはいないことを 示すものではないでしょうか。
 原作が出版されて、すでに 100年以上前から これに気づいていた読者は、少なくなかったと思われますが、 死霊に憑依される 二人の子どもたちの 行き着く果てに 待ちかまえている この忌まわしい終着点についてまで 明言している、日本語で書かれた 解説文 や 評論文 に (少なくとも 私は ) 出会ったことがありません。 いいえ、それは 本来であれば 誰も 文章になど書きたくなくなるほど、それほどまでにイヤな 負のイメージ だからでしょう。
 ですから 私も 今回の文章で 正直 ここまで はっきり書いてしまうことには 何度も躊躇(ためら )いました。 うーん、どうしようかなー、やっぱり やめておこうかなー って・・・。  でも結局は 書いてしまいました 。 ご不快になられた皆さまがた、どうかお許しください。

映画「イノセント The Innocents 」マイルズ
 尚、この場の後半で二人の幽霊が姿を消すと 入れ替わりに 舞台へ登場する家庭教師ラビリンス(迷路 )に迷い込んだ自身の苦悩する『独白 』の背後において、まるで アルバン・ベルクの「叙情組曲 」のスケルツォ楽章を思わせる疾風の弦セクションの直向(ひたむ )きな動き、ここ 素晴らしいです。

次回は・・・ 【第二幕 第2場「鐘 」 】

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