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短い小説 「星の彼方に住みたもう 」
 - 芳子さん「第九 」を歌う


登場人物
 芳子さん  (70歳、夫と死別したばかりの高齢の婦人 )
 杉谷さん  (介護保険のケアマネジャー )
 「私 」 藤井(理学療法士 )


 70歳を過ぎたとはいえ、鼻筋の通った どこか気品のある顔立ちの 芳子(よしこ )さんは、細い肩を落としながら 静かに言いました。
「独りきりになってしまってから、もう今は一日も早く お迎えが来てくれればいいのになーと、そんなことばかり 毎日 考えています -  」

 芳子さんは 先月、最愛の夫に先立たれてしまったのでした。
 高齢になってからの 急な独り暮らしに意気消沈した彼女は、この数週間ほどで急激に足腰が衰えてしまい、かつては夫と二人して地域の混声合唱団に所属していたほどだったというのに、今は 居室に置いた介護ベッドから起き上がることさえ苦しそうです。
「夫が お星さまになって 夜空へ昇っちゃってからは - 」
と、芳子さんは ため息をつきながら 続けました。
「ホント、全然立ち上がれなくなっちゃったのよ。ベッドの手すりにつかまって、いくら全力で腕を引いても足腰が立たないんですもの 」
そんな弱々しい声を心配そうに聞きながら、ケアマネジャーの杉谷さんが、今後の介護計画について話し合うために集めた 介護保険のサービス事業者三人のメンバー - ベテラン・ヘルパーの中年女性、福祉用具貸与事業の若い男性、そして 理学療法士である私 藤井  - に 発言を促しました。
思わず 私は手を挙げました。
「はい 」
「はい、PT(理学療法士 )の藤井さん 」
「私、埼玉県和光市で開催されている コミュニティケア会議を 今年 視察する機会があったんですが - 」
「ああ、全国的に有名な 地域ケア会議のモデル地区でしょう。保険者もサービス事業者も 介護予防の理念がかなり浸透しているそうですね 」
と、興味深げに 杉谷さんが身を乗り出してくれます。
「はい、私も とても影響を受けて 帰ってきました。もし 私たちサービス事業者が入ることによって 芳子さんの症状に改善の可能性が見出せるのであれば、6か月後の芳子さんの 今よりも良くなったお身体の目標イメージを 杉谷さんがケア・プランニングできるように考えたいと思うんです 」
「と言うと ? もっと具体的に、藤井さん、お願いします 」
ケアマネの杉谷さんが少し首を傾(かし )げたので、私は 説明に言葉を選びました。
「今の芳子さんの身体状況の急激な低下は、大事なご主人との死別という たいへん大きなショックによって引き起こされたものと考えて間違いないです - ということは、これは一時的なもので 私たち周囲の働きかけによって 身体機能は 回復する可能性が高いと思います 」
杉谷さんは 頷(うなづ )いてくれました。
「なるほど。芳子さんがお元気になられるよう お身体の機能の回復(リハビリテーション )訓練を開始したほうがよいということですね 」
私は、少し慌てて補足しました。
「はい。それも リハビリ訓練だけのための不毛なリハビリ作業にならぬよう、芳子さんが最も幸せになれる人生の目標を設定して差し上げることです。芳子さんが 私たち専門職と力を合わせて その目標を実現させることが、本当の意味でのリハビリテーションです 」
一同は 腕を組んで考え込みました。
「うーん、でも 何かあるかなー ? 」
「ね、芳子さん、実現させたいこと、やってみたいと思ってること、今 何かありませんか 」
介護ベッドの端に座って肩を落としている芳子さんに、杉谷さんが優しく話しかけました。でも彼女の返事には 相変わらず 元気がありません。
「いいえ。立ち上がることさえできないというのに、今は 何も・・・ 」
ああ、やっぱり - と 一同は ため息をつきながら座ろうとしました。

しかし その時です。
「いえ・・・あった 」
と、芳子さんが 虚空を見つめながら ふと思いついたように つぶやきました。
驚いて 一斉に顔を上げた 私たち一同を前に 彼女は言いました。
「立ち上がりたい、自分の足で・・・ 」
「そ、それは、どんな動機からですか 」
その理由を促す ケアマネジャーの杉谷さんの問いには答えず、芳子さんは、今日 初めて笑顔を浮かべながら 別の話を語り始めました。
「ね、皆さんは ベートーヴェン交響曲第9番『合唱 』をご存知かしら。日本での愛称は『第九 』 ― 普通ならオーケストラだけで器楽演奏されるシンフォニーの終楽章に、音楽史上初めて 人の声、つまり合唱を加えた 記念碑的な名曲・・・ 」
首を傾げながらも 音楽好きの私は 思わず口をはさんでいました。
「そういえば 芳子さんは、亡くなられた御主人様と一緒に 合唱団に所属していらっしゃいましたね 」
そんな私の顔をご覧になって、彼女はにっこりと笑いました。
「おっしゃるとおり、年末ともなれば 日本では 第九の上演回数が増えて、わたしたちが所属していた小さな合唱団でさえ この地域はもちろん 近隣のオーケストラからも 終楽章での参加・協力依頼が それはもう 降ってくるようにあったものでした - 
「合唱団では 夫のパートはテノール、わたしはアルトでした。ベートーヴェンの描いた壮大なフィナーレまで無事に歌い終えると、聴衆の盛大な拍手の中、わたしたち夫婦は ステージ上で隣り合ったパート同士、互いの顔を探し出すと、いつも目を合わせて 微笑み合うことにしていたのですよ。それが、今 想えば わたしの夫との最も幸せな瞬間だったかもしれません - 
「先月、夫は他界してしまいましたから、もう合唱で一緒のステージに立つことはありませんが、残された わたしひとりだけでも合唱団に復帰したい気持ちになっているのです 」
そこまで聞くと、杉谷さんは 傍らで芳子さんを励ますように言いました。
「それは とても良い目標設定だと思います、合唱を再開なさるということは 」
「でも - 」
と、芳子さんは 寂しそうな表情を浮かべながら ケアマネジャーに尋ねます。
「杉谷さん、あなた ご存知 ? 」
「はい ? 」
「第九はとても長い曲で、合唱が入るのは やっと最後の第4楽章なの。それまで第1楽章から第3楽章まで 器楽だけの楽章が終わるまで45分位かかることもあるんです。わたしたち合唱団は それまでオーケストラの後ろで じっと椅子に座って待ち続けているわけなんですけど、いよいよ第4楽章が始まっても合唱の出番が来るまでは 管弦楽のイントロダクションだけで さらに5分以上も待機してます 」
「そんなに待ち時間があるんですか 」
「やがて その瞬間は 突然のように訪れます。曲調が プレスト、ニ短調、3/4拍子、ティンパニが轟(とどろ )くような唸りを上げると オーケストラがフォルティッシモで不協和音を鳴り響かせる、それを合図に 合唱団が一斉に立ち上がるの 」
第九の実演をコンサートホールで体験したことがある私は、その場の劇的な効果について知っていましたから、思わず頷きました。
「200人近い合唱団員が一斉に起立するのは、さぞ壮観でしょうね 」
芳子さんは 話を続けます。
「その立ち上がるタイミングが 意外に大事なんです。合唱団200人全員が揃って毅然とした表情で立ち上がる その瞬間は、まるでベートーヴェンの音楽までも引き締まるようですよ。団員の一人でも遅れたりするようなことは、想像できません 」
彼女が何を言おうとしているのか、気づいた杉谷さんは 黙って芳子さんの顔を 見つめました。
「・・・ 」
「でも、今のわたしは 足腰が弱ってしまって、自分で立つことが出来なくなってしまったから、きっと他の合唱団員の皆さんの足手まといになってしまうでしょう -  」
と、芳子さんは 寂しそうな表情を浮かべて自分の膝を撫でました。
すると
「それを目標にしましょうよ ! 」
と、急にケアマネジャーの杉谷さんが大声を上げるので、傍らの芳子さんばかりか、私たちケア・スタッフも驚きました。かまわず杉谷さんは 語り続けます。
「そのべートーヴェンの終楽章で、芳子さん、合唱団と一緒にバッ ! と立ち上がれるようになりましょう 」。
芳子さんの瞳の奥で 何か新しい光が灯(とも )ったことに、私は気づきました。
「そんな芳子さんのことを、きっと星空からご主人様も 見ておられますよ 」
― そうだ、これこそ ひとつの「人生の目標 」として設定する価値のあることに違いない、と私は 杉谷さんの言葉を聞きながら、確信していました。

 その日から 芳子さんの 素晴らしい「目標 」 - 足腰の筋力をつけて 年末の第九公演のステージ上で 合唱団と一緒に立ち上がること - を実現させるため、理学療法士である私に 杉谷さんが任せてくれたことは、今の 芳子さんの容体に合わせて 無理せず 出来る機能回復訓練のメニューを作るということだったのでした。


 ・・・さて、それから 私にとっては あっという間に10か月ほどが過ぎ、気づくと12月の第九公演の日を迎えました。
 芳子さんが所属する合唱団を含む、地元の複数の合唱団を伴って、地域の市民オーケストラが 第九を主要演目とするコンサートを 市民会館の大ホールで催すことになりました。
 芳子さんから チケットを頂いていた私は、ケアマネジャーの杉谷さんや 介護保険のサービス担当者らと一緒に自由席に座り、演奏が始まるのを待っていました。
「どうですか、藤井さん。終楽章で 芳子さんは 無事 立ち上がれると思いますか 」
と、杉谷さんが 私に訊ねました。私には自信がありました。
「大丈夫だと思います。去年の冬からリハビリをスタートさせて まず驚いたのは、目標が明確で具体的だったせいか、芳子さんが とても熱心に訓練に取り組んでくれたことでした 」
「この時期に この場所で、立つこと、歌うこと、という目標は、確かにこれ以上ないほど 具体的で明確ですよね 」
「はい、最初のうちは ゆっくりと手探りするように歩行訓練から始めましたが、すでに5月頃には かなり筋力が回復してきていることがわかりましたので 」
「ふんふん 」
「さらに夏を迎える頃には、負荷抵抗の高い運動に効果があると聞いて、友人がトレーナーを務めているスポーツ施設の協力を得て、プール歩行までメニューに採り入れてみたんですよ。これでかなり足腰のほう、強くなったと思いますよ 」
「そうでした、芳子さんからも聞いてます。藤井さんのリハ指導のおかげで、要介護度が改善したので 今は要支援で 予防介護メニューに移行しているほどですからね 」
「どうもありがとうございます。あ 杉谷さん、そろそろ始まるようですよ 」

― ベートーヴェン交響曲第9番「合唱 」の演奏が始まりました。

 開始から 第3楽章まで、オーケストラだけの演奏で45分近くも経過 - そして ようやく終楽章に入っても さらにオーケストラだけでイントロダクションが延々と続きます。
 そこでは 第1、第2、第3楽章のそれぞれ一部分が 管弦楽によって回想されては打ち消される、という あの不思議な経過を見送るうち、やがて 静かに低音弦から湧き起るように あの有名な歓喜のテーマが溢れだすのです。
 ああ、この主題の提示部って こんなにも美しい音楽だったんだ - と新鮮な気持ちになっていました。
 しかし その間ずっと オーケストラの後ろで200人近い合唱団は 椅子に座ったまま待ち続けているわけですが、客席にいる私たちからも アルト・パートの芳子さんの姿を確かめることができました、その表情から 彼女が大分緊張しているらしいことも。

 やがて その瞬間が訪れました。
 先ほどの 第4楽章の始まりが もう一度再現されるかのように、オーケストラは フォルティッシモで不協和音を鳴り響かせ、恐ろしい勢いでティンパニが唸りを上げます。そして これを合図に、遂に合唱団が一斉に立ち上がります。それは まるで動かざるはずの山が動いたかのような錯覚を聴衆に与える瞬間です。
 しかし 客席の私たちは、芳子さんの 文字どおり一挙手一投足を 祈るような気持ちで見守っていました。ああ、どうか無事に立てますように・・・。
 大丈夫でした、芳子さんは 自身の足でしっかりと立ち上がり、他の合唱団員と一緒に“Deine Zauber binden wieder ~ ”から まったく危なげなく合唱に加わっていました。

「ああ、よかった - 」
「よかったねえ 」
私たちは、歌いながら しっかりと立ち続けている芳子さんの様子に胸をなでおろすと、今 演奏されているベートーヴェンの音楽の素晴らしさのほうへ やがて徐々に関心が移ってゆくことを感じていました。
 その日のクライマックスは、隣席に座っていたケアマネジャーの杉谷さんが、プログラムに記載されている シラーの歌詞と訳文のある特定の個所を 私にそっと指で差し示した時でした。
「藤井さん、ほら。ここ 」
「 ? 」

Brüder, über'm Sternenzelt
  兄弟たちよ、この星空の上に、
Muß ein lieber Vater wohnen.
  星の彼方に、きっと神さまがいらっしゃることを

Ahnest du den Schöpfer, Welt?
  創造主を感じるか、世界よ
Such' ihn über'm Sternenzelt!
  星空の彼方に 父なる神を求めなさい !
Über Sternen muß er wohnen.
  そこに愛する父が きっといらっしゃることを


 ステージ上でしっかりと自分の足で立ち、ベートーヴェンを歌いながら 芳子さんが 「その個所 」で 瞳をそっと閉じたことに気づいた 私は、思わず杉谷さんと目を合わせて微笑みました。それは、芳子さんが「星空の彼方 」から きっと妻のことを見守っているに違いない、彼女の亡き夫の顔を思い出しているかのようでした。

- おわり -

ベートーヴェン第9(ヘレヴェッヘ)HMF アバド 第9交響曲 D.G.(POCG-20063) ベートーヴェン第9 ワルター盤(ソニー・クラシカル SICC-1069 )

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