スケルツォ倶楽部
名優ゲアハルト・シュトルツェの演技を聴く
 オルフ「オイディプス王」(クーベリック)D.G.ゲルハルト・シュトルツェ(最小サイズの肖像写真)  目次は こちら

(39) 「まだ メシア(救い主 )は 来ておられぬ! 」 
   “Der Messias ist nicht gekommen ! ”


■ 1978年 「第1のユダヤ人 」~ R.シュトラウス:楽劇「サロメ
70年代のヘルベルト・フォンカラヤン存在しません。リヒャルト・シュトラウス
サロメ 」は、宿命的な結末をもつ スケルツォ である ( R.シュトラウス、1905年 ドレスデン )
リヒャルト・シュトラウス:楽劇 「サロメ 」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  カール=ワルター・ベーム (ヘロデ ) 
  アグネス・バルツァ (ヘロディアス )
  ヒルデガルト・ベーレンス (サロメ )
  ヨセ・ファン=ダム (ヨカナーン )
  ヴィエスラフ・オフマン (ナラボート )
  ゲアハルト・シュトルツェ (第1のユダヤ人 )
  ホルスト・ニッチェ (第2のユダヤ人 )
  マルティン・ヴァンティン (第3のユダヤ人 )
  ゲアハルト・ウンガー (第4のユダヤ人 )
  エーリヒ・クンツ ! (第5のユダヤ人 )
  ジュール・バスタン (第1のナザレ人 )
  ディッター・エレンベック (第2のナザレ人 )
  ゲルト・ニーンシュテット (第1の兵士 )
  クルト・リドル (第2の兵士 ) 他
正規録音 : なし
1978年8月3、12、16、26日 オーストリア、ザルツブルク祝祭大劇場


 ゲアハルト(ゲルハルト)・シュトルツェ、生涯最後の舞台は ヘルベルト・フォン・カラヤンの「サロメ 」でした。しかし、それは 当たり役「ヘロデ 」ではなく、めずらしくも端役「第1のユダヤ人 」としての出演でした。
 そのキャスティングの構想は 言うまでもなくカラヤンによるもので、「帝王 」は 満を持して R.シュトラウスの楽劇「サロメ 」を ザルツブルク・イースター音楽祭のプログラムに採りあげたのでした。
 それは、1976 / 1977年のプレミエ公演 および 翌1977 / 1978年の再演というわずか2シーズンのみ、けれども これは歴史的といえるほどの、空前の大成功を収めた公演でした。
 われらがシュトルツェが( 繰り返しますが「ヘロデ 」役ではなく )この「ユダヤ人の律法学者 」のひとりを務めたのは、1977 / 1978年の再演シーズンだけ(78年8月3、12、16、26日 )しかも わずか4公演だけでした。そして、この公式な録音は、残念ながら存在しないのです。
 レコーディングされた 有名なEMI盤の「サロメ 」で「第1のユダヤ人 」を務めることになるのは、このときザルツブルク祝祭大劇場の舞台には 実際には立っていなかったハインツ・ツェドニクでしたし、またシュトルツェの前年(プレミエ公演年 )に同役を務めたテノールは、ミシェル・セネシャル Michel Senechalでした。
 主要な配役は、2年にわたる両シーズンを通して不動 - すなわち サロメ(ヒルデガルト・ベーレンス )、ヘロデ(カール=ワルター・ベーム )、ヘローディアス(アグネス・バルツァ )、ヨカナーン(ヨセ・ヴァン・ダム )、ナラボート(ヴィエスラフ・オフマン )という - 顔ぶれでしたが、それは言うまでもなく 公演に併せてレコーディングされた あの有名なEMI盤の主要キャスティングとも共通です。

 実は カラヤンにとって R.シュトラウス楽劇サロメ 」は 若い頃からの重要なレパートリーでした。戦前のザルツブルク州立歌劇場 1929 / 30年のシーズンには わずか1回だけの通し稽古と総練習のみで本番の指揮をやってのけた、という伝説的な実績もあるほどなのです。しかし 歌手のキャスティングが とにかく難しく(特に「16歳 」の少女というタイトルロールを演じるソプラノ歌手に求められるハードルの高さは 困難を極め )、オーケストラ、演出、さらに受け入れる聴衆の風土まで考慮すれば、すべての環境面が揃わなければ 成功は覚束ないためか、カラヤン自身も慎重だったのでしょう、その生涯でも ごく数えるほどしか上演の機会はありませんでした。 
 この退廃的なほど美しく強烈な楽劇を いつの日か すべて条件の揃った時機にカラヤンが上演(レコーディングも )するとしたら、重要な脇役「ヘロデ 」役として シュトルツェを起用する考えを かなり以前から(カラヤンウィーン国立歌劇場の監督を務めていた1950年代から )温めていたに違いない と、私は勝手に想像していました。しかしカラヤンは、自分が納得できる「理想のサロメ 」役に適したソプラノ歌手を 当時まだ見出せなかったため、ずっとシュトルツェを待機させ続けていたのです。
 ですから1961年に デッカ・レーベルが、ビルギット・ニルソンをタイトルロールに据えて ゲオルク・ショルティ / ウィーン・フィルで「サロメ 」の録音を ゾフィエンザールで行なった時、以前からカラヤンヘロデ役として想定していたはずの 名優シュトルツェを 彼らがここで先に起用してしまったことを知って しかも出来上ったデッカ盤の音、就中(なかんずく )ショルティの指揮を聴いた 当のカラヤン自身は、(これもまた憶測ながら )内心 決して愉快には思わなかったことでしょう。
 その時の「こだわり 」が この約16年後、EMIカラヤンが満を持して「サロメ 」レコーディングを行なった際に 押し通した ある「我儘( わがまま ) 」 だったのではないか - と、私“スケルツォ倶楽部 ”発起人は 勝手に想像を たくましくします (詳しくは 後述 )。

■ カラヤン盤「サロメ 」発売時、発起人の個人的な思い出
Hildegard Behrens Karajan 1981
 そのカラヤンが、遂に「理想のサロメ 」として ヒルデガルト・ベーレンスという 当時は殆ど無名だったソプラノ歌手の才能を“ 発掘 ”し、ザルツブルク・イースター音楽祭での上演を経て、EMIから待望の全曲盤のレコードが発売される、という情報を目にした日の興奮を 私は 今も思い出せます。
 その頃、高校生だった私“スケルツォ倶楽部”発起人は すでにショルティ盤の「ジークフリート 」でミーメを熱演していたゲアハルト・シュトルツェの高い能力を認識し、次にショルティ盤「サロメ 」におけるシュトルツェが演じる狂気の「ヘロデ 」にも痺れまくっていました。
 過去、バイロイト音楽祭、ウィーン国立歌劇場、ザルツブルク・イースター音楽祭、そしてメトロポリタン歌劇場への引っ越し公演など 長年に渡って カラヤンドイツ・オペラ・プロジェクトに貢献してきた シュトルツェ名前が、新譜だった「サロメ 」のパーソネル表にあることを、当然のように期待していた( 当時 高校生だった )私は、彼の代わりにカール・ワルター=ベームなどという奇妙な名前のテノール歌手 を その誌上に見つけた時 唖然としました。「え? ・・・どうしてヘロデ役が シュトルツェじゃないの 」。

 ・・・それでも 当時通っていた私立高校からの帰途、JR武蔵小金井駅前商店街の新星堂(とてもお世話になりました、イジチさん、ネモトさん、お元気ですか? )で このカートンボックス入りの新譜カラヤン盤(東芝EMI EAC-77206~7 ) を(昼食を10回ほど抜いて 資金を貯めて )買い、それなりに胸を躍らせながら 真新しい天使レーベルが貼られた黒い塩化ビニール製の円盤にダイヤモンドの針を4度降ろして 全曲を聴き通しました。
 初めて聴くベーレンスの声の予想以上の新鮮さ、ウィーン・フィルハーモニーを「ボクが鳴らせば、同じ『サロメ 』でも ほら、ショルティのヤツとは こんなに違うだろう ? 」と言わんばかりに、オーケストラから水滴を弾(はじ )くような艶やかさを引き出して魅せるカラヤンのタクト・・・ 怖いほど美しいです。

Karajan Salome EMI (2) Karajan Salome EMI
▲ カラヤン「サロメ 」EMI盤 (注 : シュトルツェは 不参加
 
 この録音を聴くとき、忘れてはならない 興味深い情報がひとつあります。
 それが前述の カラヤンが通した「我儘 ( わがまま ) 」 - 良く言えば、必然的な「こだわり 」 - でした。
 驚くべきことに、このEMIカラヤン盤「サロメ 」録音に携わったスタッフは、 実は EMIの録音班ではなく、なんと - かつてシュトルツェヘロデ役で参加していた ショルティ / ウィーン・フィル盤「サロメ 」のレコーディングを行なった - デッカの録音チームが起用されたのでした。しかも その録音場所も 1955年以来 主にデッカの録音スタジオとして利用してきた ウィーンのゾフィエンザールが わざわざ使われたのでした、それらは すべて カラヤンの意向で。
 ・・・これは 一体どういうことでしょう。
 カラヤンは、デッカ独特の明晰な音質を 自分の「サロメ 」録音に求めていたのでしょうか - 言い換えると、その本心ではデッカの技術で録音したかったのでしょうか。あるいはショルティ(デッカ )盤にライバル意識を燃やすあまり、内心では自信満々で勝負を挑み、しかしリスナーから評価される以上 録音環境の基本的諸条件をショルティ盤と同じに揃えておこうとまで気をまわしたのでしょうか。
 その真意は カラヤンにしか判りません。
 しかし このような前代未聞の変則対応を ゴリ押しまでして自分の思いを遂げ、その上 ふたを開けてみれば 結果も桁外れに素晴らしい・・・これこそカラヤンらしい、まさに帝王のみに許されたエピソードだと思います。

 ・・・もとい。けれども、ここでヘロデを演じていた歌手カール・ワルター=ベームだけは・・・ 理解出来ませんでした( 私には - ですが )。
 それは、もしヘルデン・テノールのつもりだったとすれば あまりにも線が細く力強さにも欠ける 頼りない声質( ホントに これでローエングリン、歌ったのかなー? )もし性格テノールのつもりだったとすれば 余りにも抉りの浅い淡白な演技力、私にとっての「神 」シュトルツェとは 比較にならぬほど個性も魅力も無く、何より致命的だったのは ヘロデのもつ「狂気 」「幼児性 」を 全く表現し得ていない凡庸な歌い手が 「踊っておくれ、ザーロメ 」などと ベーレンスに頼みこむ場面など あまりにも皮相的で、到底 許せませんでした。
 しかし 私にとって二重にショックだったのは、当時 (から、そして おそらく現在に至るまで )雑誌や新聞など ジャーナル・世論は、そんなヘロデ役の K.W.=B. なるテノール歌手に対し、その大多数が 絶賛に近い評価を与え、大いに持ち上げていることでした。
 現在の 私 “スケルツォ倶楽部発起人 であれば、たとえ レコ芸で無視されようが、宇野功芳氏にボロクソに罵倒されようが ブログ上で非難の集中砲火を浴びて炎上しようが、もし自分が心底気に入った演奏家のディスクであれば 全く平気です。 ・・・でも まだ気の小さな高校生だった私他人の意見に左右されやすい年令でした。「このヘロデ歌手の 一体どこが良いと言うんだろう? 」と考え込み ( たとえ最初のうちは良く思えなくても 当時は繰り返し聴けば その長所が徐々に聴こえてくるレコードが多かったので )何度も聴き直しました。けれど 繰り返し聴けば聴くほどわからなくなり、とうとう自分の耳が信じられなくなってしまいました。
 不安になって もう一度 ショルティ盤で ヘロデを聴き直します、そこで 改めてシュトルツェの、もう比較にならぬほどレベルの高い演技力・表現能力を あらためて確信すると、せっかくの このカラヤン新譜シュトルツェの声 が聴けなかった残念無念のあまり、思わず両膝を床に着き 握り拳で自分の胸を叩いて悔しがるしかありませんでした、「ああ ! どうしてカラヤンは シュトルツェにヘロデを歌わせなかったんだろう? だって 『 D.G.盤 ジークフリート 』では ミーメ役を - ショルティ盤に重複していても - シュトルツェを 起用していたじゃないか? 」。

■ ・・・しかし、今なら 私にも判っています
 そうなのです。もし、私の「夢想 」どおり「シュトルツェをヘロデに起用 」という計画を 百歩譲って、たとえカラヤンがこの時 考えていたとしても、当時のシュトルツェの身体状況では もはや 舞台の真ん中でユダヤの暴君を演じることは出来なかった筈なのです。
 このイースター音楽祭から3ヶ月後に撮影されることとなる映画「ラインの黄金 」での映像を観れば、それは明らかに無理だったに違いない、と納得できます(前述のとおり )。シュトルツェを阻んだのは、彼自身の健康問題であったからです。
 ・・・それにしても またカラヤンの恐ろしく賢明なる部分は、映画「ラインの黄金 」サウンド・トラック録音段階であった1973年にして、すでにシュトルツェの残存能力を冷静に測っており、「ローゲを任せるには既に不適ではあるが、ニーベルハイムの小ミーメとしてなら活かせる 」という機能的な計算を働かせていたことです。しかし それでも万が一 という場合には、撮影にはシュトルツェの演技だけ代役を立てることさえもきっと考えていたことでしょう、ドンナーファーゾルトの場合と同じように。
 どんなキャスティングも、十分に理由のあることだったのです。カラヤンの判断は 常に必然でした楽劇「サロメ 」の録音も舞台上演も、当然同じ判断からであったろう・・・と、今なら 私にも察することが出来ます。

■ その生涯の最後の舞台で ―
 シュトルツェが1978年に 舞台で初めて演じることとなった端役「第1のユダヤ人 」は、ヘロデの前で激しく議論し合う5人のユダヤ人(パリサイ派の律法学者たち )の首長格で、彼らの中でも最もエネルギッシュで攻撃的な男です。
 このユダヤ人たち預言者エリアの可視性について、互いに他人の意見を聞き入れることなく、自分の意見だけを憑かれたように繰り返す狂乱の重唱は、まるで同じ場所をぐるぐる回りながら急速に発熱してゆくような一種のカノンで、R.シュトラウスの天賦の才能を証明しています。この部分の強烈な音楽は 実に素晴らしいです。かつてシュトルツェが最強のヘロデを演じたショルティ / ウィーンフィル(Decca )盤では、この場面の「第1のユダヤ人 」を、シュトルツェバイロイトの先輩格パウル・クーエンが熱演していたことをご記憶の方も多いことでしょう。
 また、捕われの預言者ヨカナーンが 地下牢の底からメシア(救い主 )の到来を告げ、これに賛同するナザレ人が柔和に語り始める福音を 真っ向から打ち消すかのように 異なる調性で(多調性 )「まだ救い主は 来ておられぬ! “Der Messias ist nicht gekommen ! ” 」と甲高く絶叫する複調パートなど、この「第1のユダヤ人 」は 端役ではあっても、実は その歌唱部分すべてが聴きどころである、とさえ言い得るのです。私も 実は秘かに、これこそシュトルツェの「あの声 」で聴いてみたかったキャラクターのひとつでありました。
 ザルツブルク祝祭大劇場における楽劇「サロメ 」上演、2年目のシーズンとなる1978年8月3日、12日、16日、26日、カラヤンは 体調に小康状態をみせていたシュトルツェを、イースター音楽祭の舞台において この比較的負担の軽い「第1のユダヤ人 」役として復帰させました。不測の事態を想定して、1年前のプレミエ・シーズンで同役を務めていたミシェル・セネシャルあたりもザルツブルクに控えさせていたかもしれません。
 その半生に渡って シュトルツェの仕事に大きな影響を及ぼしてきたカラヤンにとって、それは 1951年にバイロイト祝祭劇場で出会って以来、古くから縁も深かった ひとりの有能なキャラクター・テノールささやかな功績に対する 労(ねぎら )いと感謝の気持ちをこめての起用ではなかったか? ・・・と、私の想像力は勝手にふくらみ続けるのです。

 果たしてシュトルツェは、その生涯の最後となった舞台の上、一体どんな声で、また どんな想いで、「まだ救い主(メシア )は 来ておられぬ! 」 “Der Messias ist nicht gekommen ! ”と叫んだことでしょうか。
 ・・・ 未来の私たちには 聴くことが許されません。

次は (40)1978年、最後の演技(映像 )から 体調を読みとる・・・ に続く

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