スケルツォ倶楽部
「タイタニック船内のサロンにおける、
グスタフ・マーラーを 追悼する 架空の音楽会 」

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                          /  "スケルツォ倶楽部" 発起人

■ 登場人物
タイタニック号の サロン・バンドのメンバー
  ウォーレス・ハートリー 、リーダー、ヴァイオリン奏者
  ジョック・ヒューム 、ヴァイオリン奏者(一部でヴィオラ持替 )
  ジョルジュ・クリンズ、ヴィオラ奏者
  ロジャー・ブリコー 、チェロ奏者
  フレッド・クラーク、コントラバス奏者
  パーシー・テイラー、ピアニスト(一曲だけテノール歌手として歌う )、チェロ奏者
  テッド・ブライリー 、ピアニスト、鍵盤楽器奏者

サロン・バンドのエキストラ・メンバー
  若いバリトン歌手
  若いメゾ・ソプラノ歌手
  ロンドン交響楽団のフルート奏者
  ロンドン交響楽団のオーボエ奏者
  ロンドン交響楽団のクラリネット奏者
  ロンドン交響楽団のファゴット奏者 
  ロンドン交響楽団のホルン奏者
  ロンドン交響楽団のパーカッション奏者

マリア・ロビンソン (ウォーレス・ハートリーの帰還を故郷で待つ婚約者 )
E.S.嬢 (一等船客、ウィーン国立歌劇場のソプラノ歌手 )
マルティン・クレッツァー (17歳の見習い航海士・船内の信号ラッパ手 )
ウィリアム・マードック (一等航海士 )
トーマス・アンドリューズ (タイタニック号の設計士 )
エドワード・スミス (タイタニック号の船長 )
喪服を着た30代の婦人 (一等船客 )



(1)「まえがき 」の抜粋

 ・・・( 略 ) タイタニック号には 少なくとも8人以上のバンドメンバーが乗っていましたが、意外なことに 彼らは「2等船客 」扱いで乗船していました。これは、音楽家が「船員 」としてではなく、全員 外部企業(音楽家を派遣していた代理店C.W. & F.N. Black )の所属であったためです。けれど、正規の乗組員でないにもかかわらず、音楽家たちは タイタニックの船員から 指示・命令を受ける立場にもありました。
 そのリーダーであるヴァイオリニスト、ウォーレス・ハートリーは ランカシャー出身、当時まだ33歳の若さでした。彼は、タイタニック(ホワイト・スター・ライン社 )に乗船するまでは、やはり大型客船モーリタニア号(キューナード社 )で同じ仕事をしていましたが、その才能を高く評価されており、多くの客船から引っ張りダコで誘いを受けていました。当時 ハートリーはプロポーズしたばかりの 若く美しい婚約者マリア・ロビンソンとの結婚を控えており、タイタニック号がイギリスに戻った時点での挙式を 彼女と約束していました。
 そんな彼が率いていたタイタニック号の音楽家たちの伝説 - 沈みゆく船の甲板上に残って演奏を続け、「その最後の瞬間まで 乗客の不安を和らげようと尽力した 」という - については、もうどなたも よくご存知でしょう。タイタニック・バンドのメンバーは、いずれもハートリーが自信を持って厳選した、クラシック音楽の基礎を積んだ経験豊かな名手ばかりでした。 ・・・( 以下略 )



(2 ) ピアノ四重奏曲 断章 イ短調

 4月14日午後 8時30分、タイタニック船内のサロンにおいて、
「マエストロ・マーラーの夕べ ~ 副題 “偉大な指揮者の 作曲家としての知られざる一面を聴く” 」
と 題された音楽会が、今 まさに始まろうとしています。
 タイタニックの設計を担当した、アイルランドのベルファストにある造船会社ハーランド・アンド・ウルフ社の優秀な設計技術部長トーマス・アンドリューズも この船に乗船していましたが、彼は音楽への造詣も深く、航海中は 毎晩サロンで行われるコンサートを 必ず聴きに訪れていたほどの音楽好きでもありました。
 
 そのアンドリューズが、船に乗ってから親しくなったサロン楽団のバンド・リーダー、ウォーレス・ハートリーに、ステージ袖から小声で話しかけます。
「やあ、ハートリー君。今夜のプログラム、私は とても良い企画だと思うけれど、タイタニック号の一等に乗船している有閑階級のお客さまにとっては、マーラーの作曲した音楽など 全然 馴染みがないんじゃないかと心配しているんだよ。いくら有名な指揮者だったマエストロ・マーラーでも、彼のオリジナル作品だけで 一晩の演奏会をやろうなんて、ちょっと無理があるんじゃないかな。ほら、お客さまの入りを見てごらん 」
と、設計技師が指差すサロンの様子を見ると、確かに席はガラガラ、本来であれば70人は収容できる広さを持った ゆとりの客席には 何と 誰も座っていません - いえ、正確には たった独りだけ - 三十代位とおぼしき 美しい婦人がぽつんと - 席の中央付近に座っているのが確認できるきりです。
 折りしも サロン入口に貼ってある 演奏曲目の案内掲示を 一目見るなり、今夜はいいやとばかりに踵(きびす )を返して立ち去ってゆくオーストリア人の家族連れの後ろ姿を見ながら、ハートリーは ため息をつきます。
「昨晩は ウィンナ・オペレッタの夕べ、前の晩は モーツァルトのセレナーデとディヴェルティメント、 その前の夜はスコット・ジョプリンのラグタイム。運動不足気味の船室のお客様に、適度に踊って いただけるようなメニューも 毎回混ぜてはきましたけれど・・・」
ハートリーは 拳を握り締めて、決意も新たにつぶやきました。
「でも今夜ばかりは 私達のやりたいことをやるんです。準備は万全なんですから。世界一の豪華客船にふさわしい、世界一の選曲と企画です。その価値がわかるお客様が、たとえ一人しかいなかったとしても、私達は、その価値のわかる お一人のお客様のために、演奏するんですよ 」
それを聞いて アンドリューズは
「もちろん 私は、喜んで最後まで聴くつもりだよ。でも 私以外に “お一人”でも 他にいらっしゃれば 結構なんだけどね・・・ 」
と、この船客の音楽の趣味には殆ど期待していないらしく、肩をすくめながら ステージそばを離れると、閑散としたサロンの空席のひとつに 静かに腰をおろしました。
「聴衆は アンドリューズさん以外にも 少なくとも お一人はいらっしゃいますよ 」
と、セカンド・ヴァイオリン奏者 ジョック・ヒュームが 中央辺りに ひとり静かに着席している黒衣の婦人のことを示しながら、そっとリーダーに声をかけました。
 ハートリーは これに頷(うなづ )くと、ゆっくり振り向き、
「さ、定時だ。それでは始めよう 」
と、肩に乗せた楽器を あごに挟みながら、ステージに並んでいる仲間たちに 開始の合図を送りました。

 開幕一曲目のプログラムは、マーラーのウィーン音楽院時代の作品で、まだ学生だった頃に書かれた めずらしい室内楽の断章 - ピアノ四重奏曲 イ短調 - です。
 第1ヴァイオリンのハートリーは、この楽曲に合わせて選んだメンバーと 呼吸を合わせます。
 第2ヴァイオリン(ヴィオラ持替 )奏者は ジョック・ヒューム Jock Hume ダンフリーズ出身。まだ若く 乗船演奏家としての経験も浅いけれど、ウィーンの音楽院に留学していた その技量は一流です。バンド・リーダーであるハートリーの片腕となって活躍してくれる 明るく従順な若者で、ハートリーからは 絶大な信頼を寄せられていました。
 チェロ奏者は ロジャー・ブリコー Roger Bricoux 北フランスのリール出身。タイタニック・バンドの8人は 通常はバラバラに分かれて 絶えず 船内のあらゆる場所を、一日中 自由自在な組み合わせで演奏を続けていますが、この長身で二枚目のフランス人チェリストは、船客から親しげに話しかけられると 母国語のフランス語を交えながら当意即妙に答えるのが大いに受けて、バンドの花形のひとりでした。
 そしてピアニスト、バンドの中では 年輩格のパーシー・テイラー Percy Taylor、ロンドンのクラップハム出身で チェロもたしなみます。いつも酒に酔っているのが ちょっと困ったところでしたが、彼は 本物の天才でした。その特異な経歴は、若い頃からイタリアを中心に ヨーロッパ中の小さな歌劇場でオペラ歌手の練習ピアニストを転々としてきたというキャリアで、彼は どんなオペラのスコアでも初見で しかも いきなり求められたテンポで完璧にピアノに弾き直すことが出来ました。それほどの技能がありながら、一ヶ所の歌劇場に長く留まれなかったのは、やはり酒癖が悪いからだとも、実は女癖が悪かったからだとも いろいろ噂されてきましたが、本当の理由は 不明です。



(3)リュッケルトの詩による歌曲「私はこの世に忘れられ 」

 ピアノ四重奏断章の演奏を終えたタイタニック・バンドのメンバーたちは ピアニストのパーシー・テイラーをひとり残し サロンに設(しつら )えられた低いステージから降りました。今、酔いどれの天才ピアニストは、若いバリトン歌手の伴奏に心を込めています。
 その曲は、ドイツ初期ロマン派の詩人にして 東洋詩の翻訳家としても知られるヨーハン・ミヒャエル・フリードリヒ・リュッケルト Johann Michael Friedrich Rückert (1788 - 1866 )の詩に マーラーが作曲した歌曲「私はこの世に忘れられ 」。

歌曲 「私はこの世に忘れられ 」
詩 : ヨーハン・ミヒャエル・フリードリヒ・リュッケルト


   私は、この世に忘れられた
   世渡りが上手くなかったせいだろう
   私について話す人も もはや いなくなった
   どうせ 私は死んでしまった と、いうことにでもなっているのだろう

   死んだと思われても それで全然かまわない
   だって 私には、そうではない と 否定することもできないから
   現に、死んでいるわけだし

   もはや うるさい世間とは おさらばし、
   今や私は 静かな場所で ゆっくりと くつろいでいるのだ
   たった独りで わが平安のなかに、
   わが愛のなかに、
   わが歌のなかに、
   そこで私は 今でも生きているのだ
                         (意訳 : 山田 誠 )

 その東洋的とさえ言い得る自己滅却の美学を扱ったリュッケルトの詩に耳を傾けながら、サロンの客席に座っているバンド・リーダーのウォーレス・ハートリーは、故郷で待つ婚約者マリアの「曙の紅(くれない )の光が明け染める中 明るく輝くふたつの星 」のような 美しい瞳を ふと思い出していました。ハートリーは、タイタニックに乗船するために旅立とうとする その別れ際、サウサンプトン港まで見送りに訪れた彼の許婚(フィアンセ )と交わした、小さな諍(いさか )いの言葉を気にしていました。
 実は二人は、タイタニック号が その処女航海を 当初の予定では 3月に終えた その復路、アメリカからイギリスへ帰還した後 - 4月15日に - もともと結婚式を挙げる予定で準備していました。しかし大型巨船タイタニックの ベルファストでの建造が計画より 一ヶ月近くも大幅に遅れ、遂にその出航が 4月10日になってしまうことが判明した時、ハートリーは 妻とするマリアに 挙式の延期を告げなければならなかったのです。彼女は 愛する婚約者の言葉に 一旦は納得したものの、遅れた旅立ちに際して まだ若い愛情の裏返しから、涙に乗せて未練の言葉を抑えることができなかったのでした。
「仕方ないことじゃないか、マリア。どうか おとなしく笑顔で見送っておくれ 」
「だって、だって 」
「頼むよ、聞き分けのないことを言って ぼくを困らせないでくれ。タイタニック号は、ぼくにとっては 将来の成功にも繋がる、大きな実績を築く戦場のようなものなんだから 」
「・・・戦場のようなもの? 」
「そうだよ、男にとっては戦功を挙げるフィールドは とても重要なんだ。愛する妻を養うためにもね 」
そう言うと、ハートリーは 身を屈(かが )めながら まだ若いフィアンセが涙を溢れさせている目元に優しくキスを与えました。
「わかったわ、ごめんなさい ウォーレス 」
「ああ、よかった。ね、楽しみが先に延びただけのことだよ マリア 」
彼女は機嫌を直し、二人は微笑みを交わし合いました。けれど その笑顔のまま、マリアはキラキラ光るふたつの瞳で恋人の顔をじっと見つめながら 冗談半分に こうも言ったのでした、
「ちゃんと無事に、わたしの所へ帰ってきてよね、ウォーレス。そうでないと、わたし、アナタのことなんか忘れちゃって、他所(よそ )へ嫁いでるかもしれなくってよ 」。

 ・・・今、最後に港で交わしたマリアとの会話を思い出しながら、マーラーの音楽のゆったりした変ホ長調の流れに乗ったリュッケルトの詩は、これを聴くハートリーの心の中に、言い知れぬ不安を 波紋のように広げるのでした。



(4)歌曲集「さすらう若人の歌 」 室内楽版
 
「ハートリー君? 」
タイタニックの設計技師トーマス・アンドリューズが 次の曲のセッティングの間、客席に座っていたタイタニック・バンドのリーダー、ウォーレス・ハートリーに声をかけました。
「どうしたんだ、ハートリー君。元気がないじゃないか。まさか、故郷に置いてきた婚約者を思い出して、寂しがってるんじゃないだろうね 」
「・・・ 図星です。鋭いですね、アンドリューズさんは 」
「だって 君の顔にそう書いてあるもの。彼女に忘れられたら どうしようって 」
「 ≪タメイキ ≫ アンドリューズさんは もうすでに設計技師としての立派なキャリアを確立されているから、家族にも世間にも 忘れ去られる不安など ありませんよね。なにしろ この世界一の豪華客船タイタニック号の設計者でいらっしゃるんだから 」
「ふふん 」
アンドリューズは、少し考えてから 話題を 逸(そ )らせました。
「ええと、ハートリー君が 煙草に火を点ける時は どうやっているかな? 」
「え、何ですか、急に? そりゃ マッチを擦りますよ 」
「そうだね、最も普及している着火方法と言えば、やはりマッチだろうね。でも たとえば こんなものもあるんだよ 」
と、アンドリューズは、チョッキのポケットから掌に収まるほどの小さな器械 - ポケット・ライター - を取り出して ハートリーに見せびらかしました。
「おや、何ですか。それは 」
答える代わりに アンドリューズは、ライターを掌の中で点火して見せました。
「おお・・・! 」
「これは、まだ試作段階のサンプル品なんだけど、私の知り合いの ルイス・V.アロンソンっていうアメリカ人発明家が考案したポケット・ライターという便利グッズなんだ。スゴイよ、小さなオイル・タンクを内蔵しているから いつでも どこでもワンタッチで種火を起こすことが出来るし、よほどの突風でもなければ その火も消えないし。だから煙草への点火はもちろん、火を着けた状態でテーブルに置いとけば、小さなランプの代わりとして ちょっとした灯火の用途まで果たすんだ 」
「へえ、便利なものですねー 」
「まだまだ改良の余地は相当あるけどね。最近はドイツやオーストリアでも これに似たライターが開発され始めているらしい。だから近い将来、一瞬で消えてしまうマッチなんか やがて お払い箱になるんじゃないかな 」
「なるほど 」
「だから 話を戻すようだけれど、このタイタニックだって マッチと同じように -  」
と、そこでアンドリューズは 少し声をひそめました。
「 - 100年後には 旅客輸送事業も 全く別の方法に 取って代わられて、こんなデカイだけの船など 人々の記憶から消えてしまっていることだろう 」
「え? でも海を越えるのに 船舶以外の方法なんて あり得ないんじゃないですか 」
と、ハートリーは 首をかしげます。
「ハートリー君のような音楽家さんたちはご存知ないかもしれないけれど、今から9年前 - 1903年 - アメリカのライト兄弟が ノースカロライナ州で人類最初の有人動力飛行を成功させているんだ」
「飛行機ですって? 無謀な冒険家の道楽じゃないですか。たとえば このタイタニックの乗客ほど大勢の人間を 頼りない翼になんか乗せて大西洋を無事に飛んで渡れますか? 私にはとても想像できませんね 」
「ふふん、正直 私だってそれがどんなものになるかは想像できないさ。でも産業革命以来、われわれ人類の進歩は著しい。この10年ほどの間で航空機の研究は長足の進歩を遂げている。不吉な話だけれど、もし仮にこの新しい乗り物を戦争利用に用いるような緊張が将来 外交関係に生じたとしたら、開戦する前に 世界各国はいずこも飛行機の技術研究費の投入合戦に入ることだろう。その結果、まず兵器としての航空機技術が急速に進歩してしまうのではないかな 」
「・・・ 」
「かつては奇想天外と言われていたジュール・ヴェルヌの創作小説にも、現実はいとも容易(たやす )く追い着こうとしている。100年後 - 2012年 - になれば、想像してご覧よ、きっとその頃には こんなデカイだけの豪華客船タイタニック号など、過去の遺物、博物館入りかスペクタクル映画の舞台になっているのが落ちだろう。ましてや これを設計した私の名前なんか 一世紀後には この世から忘れ去られているに決まっているさ。たとえ万里の長城やパルテノン神殿でさえ 一体誰がその設計者の名前まで憶えていると思う? 」
そう言うと、アンドリューズは 席を立って 静かに腕を組みました。
「でも少なくとも この巨大な客船は不沈船といわれるほど安全な設計だそうじゃないですか。それは何ものにも代えがたい偉大な点だと思いますよ 」
ハートリーの この言葉を聞いて、ようやくアンドリューズは 少しだけ頷きました。
「うん、まあ そこだけは少し自信があるよ。なにしろ16区画に分かれた防水隔壁は船体の喫水線(水面 )上までの高さがあるからね。船首部なら4区画まで浸水しなければ、絶対に沈没することはない。普通の船舶同士の衝突なら 同時に何区画も浸水するような事態にはなりっこないからね、アドミラル・トーゴーの連合艦隊から砲撃でも受けない限り、大丈夫さ 」
と、そう言って彼は 少し ほほ笑みました。

「ハートリーさん、演奏の用意ができました! 」
ハートリーが信頼する 片腕、ジョック・ヒュームが バンド・マスターを呼びに走ってきました。ハートリーはヴァイオリンを抱えると、ステージ上に整列している仲間のもとへと戻ります。
 そのステージには 室内楽編成で「さすらう若人の歌 」を演奏するために、さきほど独唱を務めた若いバリトン歌手を ぐるっと囲むように、演奏家が並んでいます。それは、たまたまタイタニック号に乗りあわせ 今宵の主旨に賛同してくれた名門オーケストラ ロンドン交響楽団のフルート奏者、クラリネット奏者、トライアングルとグロッケン・シュピールを叩くパーカッション奏者という豪華なエキストラを加えた、タイタニック・バンドのメンバー7名(ウォーレス・ハートリー – 第1ヴァイオリン奏者、ジョック・ヒューム – 第2ヴァイオリン奏者、 ジョルジュ・クリンズ - ヴィオラ、ロジャー・ブリコー – チェロ奏者、フレッド・クラーク – コントラバス奏者、酔いどれの天才 パーシー・テイラー – ピアノ奏者、そして テッド・ブライリー – オルガン奏者 )でした。



(5)交響曲第1番ニ長調 「巨人(タイタン ) 」ピアノ版
 
 タイタニック号のサロンにおける今宵のコンサート - 前年に急逝したグスタフ・マーラーを 追悼しようという特別なプログラム - 次なる演目は、マエストロの愛弟子として知られる才能ある若き指揮者、ブルーノ・ワルターが 恩師の交響曲を世間に知らしめるため、ピアノ連弾(四手 )用に編曲した第1交響曲ニ長調 - それには マーラー自身によって 一度は「巨人 = タイタン Der Titan 」という標題が付されたこともありましたが、後に削除されたもの - 「第1楽章 」が、今 静かに開始されました。
 演奏は タイタニック・バンドのピアニスト、天才 パーシー・テイラー と 若き有能な新人テッド・ブライリー 、二人によるピアノ連弾です。このピアニスト以外のバンド・メンバーを除けば、今 サロンの客席に座っているのは、タイタニック号を設計した建築士トーマス・アンドリューズと、もうひとり シェルブール港から乗ってきた一等船客の物静かな黒衣の女性だけです。二人は 演奏がスタートすると、身じろぎひとつせず 真剣に聴き入りました。
 音楽は、深い大自然を思わせる神秘的な開始・・・そのうち森の奥から郭公(かっこう )が執拗に鳴き始め、遠くからファンファーレが柔らかく聞こえ、そして狩りの角笛までとどろきます、やがて作曲者自身が かつて歌曲集「さすらう若人の歌 」に用いた親しみやすい民謡風旋律の数々が重要な動機として次々に転用され、この楽章全体を通じて大活躍するという興味深いものでした。
 けれど、楽曲の進行とともに サロンの誰しも 連弾している二人のピアニストの呼吸がどうやらお互い合っていないことに 少しずつ気がつき始めました。おい、どうしたんだろう、とアンドリューズの目は 客席に座っているバンド・リーダー、ウォーレス・ハートリーに訴えています。
 パーシー・テイラーのピアノは アーティキュレーションもたっぷりと 溜め気味に歌います、悪く言えば 音楽を停滞させる傾向さえあるように思われます。しかし逆に もう一人の若いピアニスト、テッド・ブライリーのほうは、パーシー翁のピアノに 最初から合わせようとしていないようにも聞こえ、相対的に若者のテンポの方が奔(はし )っている感さえあります。そのうちパーシー翁の指は 明らかに苛立ち始め、鍵盤を叩きながら あからさまにブライリーのことを睨みつけるような表情まで浮かべるようになりました。
「こら テディ、オレの旋律線に合わせられないのか この青二才が? 」
ブライリーのほうも これには腹に据えかねた様子で、
「ちぇっ、爺さんこそ 遅すぎるんだよー。酒の飲み過ぎで 胃がもたれてるんじゃないか(笑 ) 」
二人は演奏しながら 器用にも互いに小声で言い争っていましたが、その諍(いさか )いの声は サロンの客席にまではっきりと届いてしまっていました。ハートリーは、二人が無事に演奏を終えられるか 気が気ではなくなり、思わず席を立ち上がってしまいました。が、その瞬間、遂に音楽は破綻して 二人は同時に弾くのを 突然 止めてしまいました - と、そのように聴こえたのは、実は 第一楽章の終止が そういう唐突な終わり方をする変わった音楽だということを、ハートリーが知らなかっただけです。当初のプログラムどおり、「巨人 」は 第1楽章のみ抜粋しての演奏が、今 終了しました。
 
「ああ、疲れた。爺さんのお守りは大変だ 」
と、若いブライリーは もうコリゴリという表情で、いち早くピアノから離れると、さっさとステージを降りてしまいました。
 一方、パーシー翁のほうはと言うと、ピアノに座ったまま 左手で口ひげをしごきながら 何やら気が済まない様子でしたが、客席に立っている年下のバンド・マスターの姿に気づくと 右手で招いて呼びつけました。
「おい、ウォーレス。今 オレは どうにも むしゃくしゃして気分が治まらない。だから、これから続けて 第2楽章のスケルツォを 独りで弾くぞ。いいだろう? 」
ハートリーは 急いで 低いステージに駆け上がりました。
「な、何を弾くんですって? 」
「スケルツォと言っただろう、Kräftig bewegt, doch nicht zu schnell - 力強く動いて、けれど あまり速くならぬように イ長調、4分の 3拍子 」
「え? だって、ここにあるのは連弾用の楽譜じゃないですか、テイラーさん 」
ずっとヨーロッパ中のいろいろな歌劇場で 歌手の練習ピアニストを務めてきたパーシー翁は、連弾譜どころか たとえ30段以上ものパート譜が並ぶ オペラのスコアでも、見事に初見で弾き直してしまうことができる - そんな、彼の特殊技能を ハートリーは一瞬忘れていたのでした。
「ふふん、楽譜から必要な音だけちゃんと拾うから 大丈夫さ。気の合わない相棒に 気を遣(つか )った分、自分の解釈でソロを弾いておかないと、精神的にバランスが取れねえや 」
「第2楽章を演奏する時間は 予定にありませんよ。ねえ、テイラーさん、どうか・・・ 」
自分よりずっと年配のピアニストのわがままを 思いとどまってもらうには 何と言えばよいのか、ハートリーは ピアノの脇に立ったまま、すっかり困ってしまいました。パーシー翁は そんな若いバンド・リーダーに 軽くウィンクしてみせると、
「どこから見ても お前は 立派な譜めくり役だ。遅れずに ついてこいよ、ウォーレス。さあ 『 船は 帆を一杯に張って 』! 」
と、そう言い放つやいなや 郭公(かっこう )の 4度動機を 左手で力強く繰り返す ベースのオスティナート・リズムを 鍵盤で叩き始めました。
 ピアノの上で必死に楽譜と格闘しているハートリーが、半端でなく何ページもバサバサとめくり続ける、その様子を見て、客席のアンドリューズは ピアニストのパーシー・テイラーが 今 連弾譜をリアルタイムで読み換えながら演奏しているということに 初めて気づき、相当驚いていました。そして その凄まじいスケルツォを 叩きつけるように弾き終えると、汗ひとつかいていないパーシー翁が 続けて、
「よし 次、第3楽章! 」
と、弾き始めようとするのに気づいた ハートリー、大慌てでピアノの上の楽譜を閉じると、翁の暴走を阻止するため サロン隣にあるパブを指差して叫んでいました。
「ご苦労さま、テイラーさん。隣りのバー・カウンターに 冷えたエールを用意しておきました! 」
これを聞くと 爺さんは ぴょこんとひとつ 慣れたお辞儀をすると、片や汗びっしょりのウォーレスをステージに置きざりにして、颯爽とバーへと姿を消しました。



(6)アルマ・マーラーの歌曲 「わたしの父の庭で 」室内楽版

「お疲れさまでした、ハートリーさん 」
パーシー・テイラーの天才的なソロ・ピアノ - まったく予定になかった ぶっつけ本番 - の譜めくりを手伝わされたおかげで、演奏せずに疲労困憊したバンド・リーダー、ウォーレス・ハートリーが 額の汗を拭きつつ ゆっくりとステージを降りてくると、そこへ 若い楽団員ジョック・ヒュームが駆け寄ってきて、彼に労(ねぎら )いの言葉とともに 一杯のワイン・グラスを 差し出しました。
 「・・・おお、ありがとう。ジョック 」
相変わらずガラガラの客席を見回した時、ふとハートリーは そこで初めて 気がつきました、今宵の音楽会がスタートしてから席に座って静かに聴いていた30代位の一等船客の女性と、タイタニック号を設計した建築士アンドリューズという僅か二人だけだった筈のサロンの聴き手が いつのまにか もう一人 増えていたことに・・・。
「あ、やはり お気づきですね、ハートリーさん。もうお一人、スケルツォの演奏途中で入ってこられたんですよ 」
「まさか・・・ 」
ハートリーは、客席のアンドリューズの隣に座っている その威厳ある初老の紳士の顔と 彼がその身にまとっている制服を見て、少し驚きました。
「そうです、スミス船長 ですよ 」

 それは 確かに タイタニック号の船長 エドワード・スミス その人でした。
 夜になって気温は下がったものの 晴天で風もなく 鏡のように静かな海面を照らす月明かりの様子から、今宵は航行上の危険性も低いものと判断した船長は 「何かあったら知らせるように 」と、配下の航海士に夜間操舵を任せ、自分は就寝のため まさに自室へと引き上げる途中でした。
 その時 サロンから流れてくる凄まじいピアノのスケルツォ演奏を耳にした、実は 音楽愛好家の スミス船長は、入口に貼ってある「マエストロ・マーラーの夕べ ~ 副題 “偉大な指揮者の 作曲家としての知られざる一面を聴く” 」というテーマに少なからぬ興味を覚えたのでした。
 サロンの内部をのぞいてみると、聴いている客が殆どいないのにも関わらず、真剣にピアノに向かっている初老のピアニストと その傍らで熱心に譜をめくっている楽団のリーダーの姿とが目に入りました。航海中ずっと、主に一等船客のため 船内のいろいろな場所で一生懸命に働いてきた楽団員たちのことを思い出し、少し気の毒に感じた船長は、自室に戻るのを後回しにして、サロンの重い扉を開けると、中へと入ったのでした。
「・・・それで、ハートリーさん、もうひとつ 驚くことがあるんですよ 」
「何だい、ジョック? 」
ヒュームは そこで声をひそめました。
「今宵 最初から 聴いてくださっている一等船客のご婦人が一人 いらっしゃいますよね 」
「ああ、あの喪服の女性(ひと )のことだね 」
「あの方は、マーラーの未亡人、アルマ夫人です 」
「! 」
「さっきのスケルツォの演奏中、スミス船長が このサロンに入ってこられた時、一等船客なので 当然顔見知りなんでしょう、船長は マーラー未亡人のそばに歩み寄られると、小さな声で ご挨拶をされたんですよ 『今晩は、アルマ夫人 』って 」
「本当か? 」
「そうしたら 『もう あれから一年経ちました。夫が残した残務の事務処理や何やらで 今でも 時々ニューヨークとウィーンの間を往復しなければなりませんの 』って、そんなようなことを おっしゃっている会話が聴こえたんです 」
「ジョック、君は アルマ夫人の顔を ウィーン留学中に見たことがあるのか 」
「はい、私がウィーンにいた頃には、マーラーが指揮する『ルイーズ 』や『ドン・ジョヴァンニ 』などを 宮廷歌劇場の天上桟敷席から眺めたものでしたが、そこから二階フロアの高価なボックス席を見おろすと、アルマ・マーラー夫人が 知人や友人方と一緒にいらっしゃるのを たびたび目撃したものです 」
「では、君は その顔に見覚えがあるんだな? 」
「間違いないと思います 」
そう答えながら、ヒュームは 胸の動悸が高まるのを感じました。
 
 今宵、マーラーの一周忌にのぞんで組んだ 特別なプログラムに、ヒュームは ハートリーたちタイタニック・バンドと、実は ひとつのサプライズを用意していました。
 それは、マエストロ・マーラーの未亡人となったアルマ夫人が、若き日に作曲した歌曲でした。
「なんという偶然だろうか - 」
 アルマ夫人は、風景画家ヤーコプ・エミール・シンドラーの娘で、分離派の画家カール・モルは継父でもありました。幼い頃から ウィーンの前衛芸術家と親しく接してきた彼女の少女時代からの関心は しかし主に音楽であり、アレクサンダー・ツェムリンスキーのもとで作曲を学ぶようにさえなります。7歳年上の若い師のもとで - おそらく音楽以外のことも学びつつ - 若きアルマは100曲近くもの歌曲といくつかの器楽曲を作曲、その創作意欲の高さは驚異的ですが、けれど22歳でマーラーと出会ったアルマは、翌年 このエリート指揮者との電撃結婚を選び、同時に 夫から 作曲を止めるよう命じられると、従順にも「わたしの創作的才能を わたしよりも偉大な精神者に与えることは、わたしの特権であった 」とまで宣言し きっぱりと筆を折ってしまうのですが、実は その内面深くに 音楽創作へ燃える炎を ずっと封印してきたに違いなかったのです。
 その夫たるマーラーが、不可解なことに、亡くなる前年 - 1910年 - 結婚時 妻に要請した前言を 突然 翻(ひるがえ )し、アルマ夫人の才能を認めると 作曲することを許可、奨励した上、あろうことか 彼女が結婚前に創作した作品を出版する手筈まで整えていたことは、あまり知られていません。

 タイタニック・バンドの楽団員は、ウニフェルザール社から出版されたばかりのアルマ夫人が作曲した 質の高い歌曲 - ハルトレーベンの詩による「わたしの父の庭で In meines Vaters Garten 」 - の楽譜を入手し、もともとピアノ伴奏によるこの作品を 今宵の音楽会用に 弦5部とピアノとによる室内楽版に共同編曲しました。
 今宵の趣向は、まず先にアルマ夫人のオリジナル・ヴァージョンを テッド・ブライリーによるピアノ伴奏で、その後でタイタニック・バンド(ウォーレス・ハートリー 第1ヴァイオリン、ジョック・ヒューム 第2ヴァイオリン、ジョルジュ・クリンズ ヴィオラ、ロジャー・ブリコー チェロ、フレッド・クラーク コントラバス、テッド・ブライリー ピアノ )による室内楽ヴァージョンで演奏する - というものでした。
 若いメゾ・ソプラノ歌手は、自分の譜面台を自身で運んで 手際よくセッティングを終えると、一度 静かに目を閉じ 大きく胸を膨らませながら深呼吸した後、ピアノ伴奏を手がけるピアニスト、ブライリーに「いつでもOKよ 」という顔をしました。


「わたしの父の庭で 」
   (オットー・エーリヒ・ハルトレーベン / 詩 )


わたしの父の庭には、木陰をつくる一本のりんごの木があった
  (花ひらけ、私の心よ 花ひらけ! )
  (甘き夢、甘き夢! )
3人のブロンドの皇女たち
  (花ひらけ、私の心よ 花ひらけ! )
3人の美しい乙女らが、りんごの木の下で眠っていた
  (甘き夢、甘き夢! )

いちばん若い、たおやかな乙女は
  (花ひらけ、私の心よ 花ひらけ! )
目をしばたかせたが、起きなかった
  (甘き夢、甘き夢! )

2番目の乙女は自分の髪を撫で、
  (花ひらけ、私の心よ 花ひらけ! )
赤い夕焼けを見た
  (甘き夢、甘き夢! )
そして言った 太鼓の響きが聞こえないの?
薄明の夢をとおりぬけて、なんと明るいこと!
愛する人は戦に行ってしまう!
  (花ひらけ、私の心よ 花ひらけ! )
勝者のくちづけを着物のすそに
  (甘き夢、甘き夢! )
くちづけを 私の着物のすそに

3番目の乙女は話した そっと小声で話した
  (花ひらけ、私の心よ 花ひらけ! )
私なら、愛する人の着物のすそに口づけをする
  (甘き夢、甘き夢! )
私なら、愛する人の着物のすそに口づけをする

わたしの父の庭の
   (花ひらけ、私の心よ 花ひらけ! )
日当たりのよいところに、 一本のりんごの木が立っている
   (甘き夢、甘き夢! )
日当たりのよいところに、 一本のりんごの木が立っている
                     ( 訳 岩下 眞好 )

 次は、同じ歌曲を 今度は タイタニック・バンドによる室内楽伴奏版での演奏です。
 若いメゾ・ソプラノ歌手は 同じフレーズを歌いつつ、自分の声を取り巻く音響の、先ほどのピアノ独奏とは全く異なる新鮮な効果に気づいていました。
 殆ど初見で楽譜を追いながら ジョック・ヒュームは、今 客席の最前列に座って 熱心に音楽に聴き入っている 喪服を装った「アルマ夫人 」の姿を意識していました。彼女は 白い瑪瑙(めのう )に カンパネッラ(鐘 )のデザインの浮き彫りを施した 高価なストーンカメオのブローチを その美しい胸元に着けていました。横顔には憂いを帯びていましたが、ヒュームには 殊のほか輝かしく見えました。彼女は まだ31歳位の若さである筈です。

 演奏を終え、客席の「マーラー夫人 」と目が合ったような気がしたヒュームは、ステージから 彼女に深く会釈した後、そっと心の裡で呟きました。
「(アルマさん、演奏はいかがでしたでしょうか。貴女の歌曲に拙いアレンジを施してしまいましたが、ご不興ではありませんか ) 」
 すると、まるでヒュームの心の呟きが届いたかのように、「アルマ夫人 」は、
「(たいへん結構でしたよ - 私の曲を大事に扱ってくださって - どうもありがとうございます ) 」
と、まるでそう答えたかのように軽く会釈を返してくれたのを見て、若いヒュームは もはや内心の喜びを押さえられなくなりました。
「マエストロ・マーラーの未亡人が、サロンの客席に ご着席なんだ。世界最高の聴衆だ。アルマ夫人お一人のためにも、今夜、このマーラー・プログラムは 最後まで演奏して 絶対に成功させるぞ! 」



(7)交響曲第4番 ト長調 室内楽版

「アンドリューズ君が これほど音楽に造詣が深かったとは知らなかった・・・ 」
グスタフ・マーラーの功績を讃えるサロン・コンサートの休憩時間に、タイタニック号の船長エドワード・スミスは、隣の席に座っている設計士トーマス・アンドリューズに にこやかに話しかけました。
「いえいえ。スミス船長こそ、そのオペラについての幅広い知識と深いご見識には驚かされました、今まで これほど音楽について お詳しい方だったとは全く存知上げず - 」
「ははは、なにしろ航海中は お互い 船舶の航行についての話題しか交わすことなどないからなあ、この航海も最後の夜になって このような場で アンドリューズ君と音楽について会話できたことは幸いだった 」
「私こそ、船長。いずれまた ご一緒できる機会があるとよいのですが 」
と、タイタニック号の設計士は 心からの願いを込めて言いました。
すると スミス船長は、
「いや、実は この航海を最後に 私は引退することになっているんだ 」
と、意外なことを言いました。これにはアンドリューズも 少なからず驚きました。
「ええっ、そうだったんですか 」
「うん、まだ イズメイ社長と役員達ぐらいしか知らないかもしれないなあ。士気が下がるといけないから、敢えて船員たちには 殆ど伝えていないことなんだ 」
「・・・そうでしたか、それは お疲れさまでした。船長、それでは 今回の大型客船の処女航海は、まさに あなたのご勇退にふさわしい 堂々とした花道ですね - 」
「そう、望んでも めったに得られぬ 華やかな花道だよ 」
と、スミス船長は にっこり笑いました。

 さて 続くステージのプログラム、次は マーラー作曲 交響曲第4番 ト長調 から 第1楽章 です。
 サロン・バンドのアンサンブル(ウォーレス・ハートリー – 第1ヴァイオリン奏者、ジョック・ヒューム - 第2ヴァイオリン奏者、 ジョルジュ・クリンズ– ヴィオラ奏者、ロジャー・ブリコー – チェロ奏者、フレッド・クラーク – コントラバス奏者、パーシー・テイラー – ピアニスト、テッド・ブライリー – オルガン奏者 )に、タイタニック号に乗船していたロンドン交響楽団の有志(フルート奏者、オーボエ奏者、クラリネット奏者、打楽器奏者 )が ここでも 再び参加します。
 まさに演奏を開始しようという頃、先ほどから だいぶ酔いのまわってきた ピアニスト、パーシー・テイラーが、自分より年下のバンド・リーダー、ウォーレス・ハートリーに近づいてきて話しかけました。
「おい ウォーレス 」
「今度は 何ですか、テイラーさん? 」
「いいか、この第1楽章はだな、天国での平和な目覚めなんだよ 」
「? 」
「妙なる天使の歌声に 五感は隅々まで掻き立てられ、あらゆるものが 喜びのために目を覚ますんだな 」
「第4楽章のテキストですね、おっしゃる通りだと思います 」
「いや、お前は マーラーを 理解していないな 」
「(困ったなあ )何をおっしゃりたいんですか、テイラーさん 」
「重要な 目覚めのトランペットを クラリネットなんかで 代用しようとしているじゃねえか 」
「ああ、あそこですか・・・ 」
楽譜 Mahler Trumpet (1)
 そこは、第1楽章の211小節以降、いわゆる「夢のオカリナ 」から発展した解放的な明るいメロディを ホルンのアンサンブルに加わったトランペットが朗々と歌う、この楽章のクライマックスとも言える箇所でした。
「あれはな、天国で目覚めた主人公を歓呼する喜びの吹奏でなければならんだろ 」
「はあ・・・ 」
「しかし同時にそれは、地上で 主人公を葬ろうとする葬列のラッパとして鳴り響いているんじゃ 」
それは、続く224小節以降、同じくマーラーによる第5交響曲の冒頭で再現されるアウフタクトの三連符で始まる葬送のファンファーレです。
楽譜 Mahler Trumpet (2)
「・・・だから 絶対に あそこは どちらも美しいトランペットの音でなければイカン。クラリネットの音なんかでは アンサンブルの中に埋もれてしまうだろう、リハーサルの時に気づかなかったか 」
「わかりますよ、テイラーさん 」
さすがのハートリーも 少し イラッときていました。
「でも もう本番なんですから、今からじゃ どうしようもないでしょう? 」
バンドのメンバーは皆 当惑して 互いに顔を見合わせています。最も年上で才能あるテイラー翁には 誰も正面切って反論できないのです。テイラーとは不仲の もうひとりの鍵盤奏者テッド・ブライリーなどは、聞こえよがしに 大きなため息をついています。
 ああ、まったく ここは戦場だよ、マリア - と、ハートリーは 故郷に残してきた婚約者の顔を脳裏に浮かべました。
「ロンドン交響楽団のメンバーで トランペット奏者は乗船していないんですよね 」
と、サロン・バンドの第2ヴァイオリンを務めるジョック・ヒュームが 思いついて エキストラの木管奏者に尋ねましたが、
「ホルン以外の金管楽器奏者は、われわれとは別の船 - たしか ボルティック号 - に分乗している筈なんですよ、ヒュームさん 」
と、困った顔で クラリネット奏者は答えました。

 そんな音楽家同士のステージ上でのやりとりを 客席で眺めていたスミス船長のもとへ、サロン内を 小走りで訪れた ひとりの若い船員がいました。彼は船長に電報をもってきたのです。
「ああ、よかった、船長。こちらにいらっしゃったのですね。お部屋で休まれていると伺いましたので、心配いたしました。これは 通信室からの電報です 」
スミス船長は 電文を受け取ると これに目を通しながら 呟きました。
「メサバ号から氷山に注意するようにとの警告だ。だが、すでに 我らがタイタニック号は 慎重にも南寄りのコースへと安全に変更を済ませたので、もはや心配はいらぬのだ 」
そして、その若い船員に言いました。
「ところで、君は たしか 見習い航海士のマルティン・クレッツァー君だったな 」
「はい、船長。私ごとき若輩者を 覚えていてくださるなんて、光栄です 」
「君が 船内の信号ラッパ手を務めていることも、私は 知っているぞ。歳はいくつになる、マルティン? 」
「はい、17歳になります、船長 」
「おーい、君たち 」
と、スミス船長は、ステージに立ちつくしているハートリーと ピアノの前で頭を抱えているテイラー翁に 声をかけました。
「ちょうど ここに 若いが 優秀なトランペット奏者がいるが、どうかな。使ってみないか、私が許可するが 」
文字どおり 渡りに船とばかり 救われた気になった ハートリーは、テイラー翁の目を見ると力強く頷きました。喜んでテイラーは 手書きの譜面を持ってステージを降りると、明らかに 酔っ払った足取りで マルティン少年のところへ駆けつけます。
「坊や、楽譜は読めるな? 」
少年は、酒臭い老人の勢いに当惑しつつも、自信を持って首を縦に振りました。
「はい、大丈夫だと思います 」
「坊やに吹いてもらうのは たった24小節だけだ。それだけだ。そして オレがピアノから合図するから、この楽譜通りに吹けばいい。途中の呼応するフレーズとか その他の部分では ステージにいるオレのピアノと木管奏者がフォローするから、まったく心配するな 」
「はい、わかりました 」
「ええと、それから 坊やの立ち位置は・・・と、そうだな、ステージから離れた サロンの入口付近だ。頼んだぞ! 」

 さあ、ようやく演奏が始まりました。
 ぶっつけ本番で トランペットが参加することとなった、その問題の箇所は 実に素晴らしい効果を上げました。テイラー翁の合図どおり 間髪をいれず入った マルティン少年は 誠に堂々と吹奏し、天国と地上、その両方のファンファーレを 見事に表現したのでした。その瞬間、客席の「アルマ夫人 」も深く感動している様子であることは、彼女を注意深く見ていたジョック・ヒュームには判りました。
 ヴァイオリンを演奏しながら、バンド・リーダーの ハートリー自身も その美しいトランペットが鳴り響く音には深く感動させられ、これを深く記憶に刻みつけたのでした。



(8)「天上の生活 」

「ハートリーさん、また新たな問題が - 」
マーラーの第4交響曲 - 第1楽章 - の演奏を終え、タイタニックのサロン・バンドのメンバーが 短い休憩を取っているところへ、楽団の若いヴァイオリン奏者ジョック・ヒュームが困りきった顔で バンド・リーダーであるウォーレス・ハートリーのそばに近寄りました。
「さて、今度は何が起きたんだ、ジョック? 」
もはや何があっても驚くまい - とハートリーは心の中で開き直りました。
「私たちが第4を演奏中に、サロンのお客様が また一人増えていたことにお気づきですか 」
ヒュームの言葉に、ハートリーは サロンを振り向きました。

 ・・・ スミス船長と話す設計士アンドリューズ、最前列の中央で静かに座っている美しい「アルマ夫人 」の他に たしかにもう一人、新たな存在が - 華やかに着飾った30代位のふっくらとした女性が ステージから離れて遠くに立っていることに ハートリーは 初めて気づきました。
「本当だ。あのご婦人はどなただ、ジョック? 」
若いヴァイオリン奏者は 小声でリーダーに囁きました。
「はい。ウィーンのソプラノ歌手、E.S.嬢だそうです。

「・・・愛人であるアメリカのお金持ちと 今回 お忍びのプライベート旅行で このタイタニック号に乗船していたようですが、彼女 知名度はありませんが、何でも生前マエストロ・マーラー自身の指揮の下、ウィーンの宮廷歌劇場で歌った経験もあるそうなんですよ 」
「本当かい、それは凄いな・・・それで? 」
「今夜の企画を知って、マエストロの追悼演奏会に参加したい、何か一曲 歌わせてほしいって そうおっしゃるんですよ 」
「なんだ、そういうことか。 飛び入り出演というわけだな。それは・・・とてもありがたいお申し出だが - 」
「そうです。急に言われても マーラーにゆかりの声楽曲でなければなりませんし、また 私たちに伴奏が務まる周知の作品でなければなりません・・・ 」
ハートリーは腕を組みながら ヒュームに尋ねました。
「それで ジョック、君は E.S.嬢に 彼女の歌唱レパートリーを 訊いたのか 」
「はい。今 私たちが演奏した第4交響曲の 第4楽章『天上の生活 』ではどうか とおっしゃっています 」

「ああ、それはちょうどタイムリーな とても良い選曲だとは思うが、『天上の生活 』は 今回 われわれの編成で演奏するためのアレンジを用意していないんだよなあ 」
「オリジナルの総譜(スコア )なら ありますけど・・・ 」
「そのまま弾いても 曲にならないだろ、ジョック。第一、パート譜がなければ・・・ 」
「困りましたね - 」
だが 次の瞬間、ハートリーは ふと思いついて立ち上がりました、
「そうだ! テイラーさんなら 初見のスコア・リーディングでも弾くことができるぞ 」
「なるほど、ピアノ伴奏で歌って頂ければよかったんだ! 」
「皆さま、暫くお待ちください 」
ハートリーとヒュームの二人は サロン隣りのパブへとダッシュすると、そこで ほろ酔い気分でカウンターに寄りかかっているパーシー・テイラーの姿を見つけました。
「テイラーさん、ご相談が 」
・・・けれど天才ピアニストの答えは、
「いやだね。弾けるけど、俺は弾かねえよ 」
「弾けるけれど 弾かないって それは どういう意味ですか 」
テイラー翁は グラスを傾けながら、ふふんと鼻先で笑いました。
「俺は キライなんだよ、あの生ぬるい 天使の歌が。それだけだ 」
こいつ! と、ハートリーは 思わずテイラーの胸ぐらを激しく掴んでいる自分の姿を・・・心の中で想像しました。この男がオペラ歌手の練習ピアニストとしては超一流の技能を持っていたにもかかわらず、ヨーロッパでは一ヶ所の歌劇場にも長く留まることができなかった理由とは、女癖が悪かったわけでもなく、酒癖ばかりのせいでもなく、間違いなく その気まぐれでわがまま、かつ自分勝手な性格が原因だったに違いないと判ったからです。



(9)マーラー自身のピアノ伴奏で「天上の生活 」を歌う!

「わかりました、もうアナタには頼みませんよ。さあジョック、とっととサロンへ戻ろう 」
自分勝手なピアニストに失望したウォーレス・ハートリーは 不快感を抑えながら 若い楽団員ジョック・ヒュームを促すと、バー・カウンターにもたれたパーシー・テイラーの酔っ払った顔に背を向けようとしました。
すると、
「おーい、ちょっと待てよ ウォーレス 」
と、テイラー翁の方は上機嫌で 手にしたグラスの中で氷をころころと回しながら バンドリーダーを呼び止めるではありませんか。
「ひとつ 良いことを教えてやるよ。 その『天上の生活 』を、俺は弾く気はないけれど、いいか、マエストロ・マーラー自身にピアノで伴奏してもらう方法があると言ったら、お前ら どうする? 」
二人の楽員は同時に立ち止まると、首を揃えて振り向きました。
「はあ、何 言ってんだろ。爺さん、大分 飲んでるようですよ 」
と、脇でヒュームがあきれながら呟きます。それを制してハートリーは、目上の天才ピアニストへの敬意を思い出しつつ尋ねました。
「おっしゃってる意味がよくわかりませんが、テイラーさん 」
「ふふん、それじゃ 今すぐサロンに戻って 設計士のアンドリューズにでも訊いてみるがいい。きっと答えが返ってくるであろう 」
「? 」

 テイラーに言われたとおり サロンに戻った二人が尋ねてみると、タイタニック号を設計した高名な建築士は 興奮して膝を叩きました。
「そうか、なるほど その手があったな! 」
「え? どういうことですか、アンドリューズさん? 」
「多分 君たちも知らない おもしろい話があるんだよ。もともと このタイタニックのサロンにはね、設計・建造段階では 最新の“オーケストリオン” という巨大な自動演奏オルガン - ラッパやパーカッションまで連動させて いろんな種類の音を同時に発しながら オーケストラみたいな効果を得られる - そんな特大のオルゴールを据え置こうという計画があったんだ 」
興味深いアンドリューズの語りに、いつのまにかサロン・バンドのメンバーたちは、皆で設計士の周りを取り囲んでいました。
「・・・しかし、船の建造と同様、オルゴール製作にも凄く時間がかかって、その予定は大幅に遅れ、結局 タイタニックの出航には絶対 間に合わないことが、2ヶ月前くらいだったかなあ、確実となった。結局 従来からの室内楽バンドを乗船させることになり、それで 代理店を通して ここにいるハートリー君に 今回の乗船楽員メンバーの人選をしてもらったというわけなんだ 」
「そ、そうだったんですか 」
ハートリー自身でさえ 初めて聞く驚きの真相に、ヴァイオリン奏者のジョック・ヒュームと鍵盤楽器担当のテッド・ブライリーとは 異口同音に尋ねました。
「では、もし 逆に“オーケストリオン”っていう、そのオルゴールが予定通りに完成していたとしたら、私たちは このタイタニック号には乗っていなかったって、そういうことですか? 」
アンドリューズは 少し困った顔になりました。
「うーん、そうなったかどうかは、私にもわからないけどね。でも機械文明の波は、近い将来、確実に 世界から音楽家の活躍する場を奪ってゆくのではないだろうか。それは、たとえば使い捨てのマッチが やがては火の消えないライターという便利な機械に、ラッパ手による合図信号が拡声器という技術に、海路を往く大型客船が やがては空飛ぶ大型旅客機に・・・というのと同じように、何ごとも その主役の座を譲る交代の時期というのは 必ず来るものではないかね 」
「私たちに代わって、機械が楽器を演奏する世の中なんて 本当に来るんでしょうか・・・ 」
考え込むサロン・バンドのメンバーに、アンドリューズは話を続けます。
「あ、そうそう。それで話は戻るけど、“オーケストリオン”製造こそ間に合わなかったものの、ほら あそこの壁際にアップライト・ピアノが一台置いてあるだろう、あれが そのオルゴールの代わりにタイタニックに用意された機械ピアノだよ 」
「あぁ、自動ピアノですね。でも、この航海中 サロンで使われることはありませんでしたね 」
と 頷くハートリーの言葉に、アンドリューズが 補足を重ねます。
「それは、タイタニック号 最初の、この記念すべき航海中、君たちサロン・バンドのメンバーによる活躍が目ざましかったから、機械仕掛けの自動ピアノなんかには 出番がなかったということじゃないかな 」

 自動ピアノ( 「自動演奏機能によって作動するピアノ 」 )とは、19世紀末から普及した一種の補助楽器で、音を鳴らす必要がある箇所に孔を開けたロール紙を 鍵盤の数だけ孔のついた円筒に合わせて回転させ、2つの孔が一致するとき空気が吸い込まれ、管を通して送られた空気に反応して鍵盤が動き、ピアノのハンマー等を正確に動作させる緻密な仕組みが施されたピアノのことです。
 SPレコードが普及する前(の一時期 )には、裕福な家庭の音楽再生手段としても使われていましたが、その演奏情報源である「ピアノ・ロール 」は、現在のレコード(CD )と同様、商業的にも流通・販売されていたのでした。
 マエストロ・マーラー自身が弾いた 「第4交響曲 」~第4楽章「天上の生活 」も タイタニック号のピアノロール・コレクションに当然含まれており、パーシー・テイラー翁は そのことを知っていたのでした。
 ジョック・ヒュームは、サロンのE.S.嬢に歩み寄ると ずっと待たせてしまっていたことを詫びた上、手短に演奏企画の意図を説明していました。ソプラノ歌手が マーラー自身の弾いたピアノ演奏の記録が残っていると聞かされるのも初めてだったらしく 心から嬉しそうな表情を浮かべているのを見て、ハートリーは安心して 急なプログラム変更の案内を始めました。
「・・・ええと、たいへんお待たせしました、皆さま。ただいまより 今は亡き マエストロ、グスタフ・マーラー師が 生前 ‐1905年11月9日 - その当時45歳、ライプツィヒのヴェルテ=ミニヨン社のスタジオで、自作の交響曲第4番 第4楽章をピアノに演奏した際、ピアノ・ロールに刻まれた記録を再現し、これを伴奏にして ウィーンの宮廷歌劇場のソプラノ歌手E.S.嬢が 『天上の生活 』を独唱いたします! 」
 拍手・・・


「天上の生活 」 ~ マーラー : 交響曲第4番 第4楽章

ぼくたちは天国で うれしい
もう地上の出来事なんか どうでもいいの
だって どんなに地上が騒がしくても、
ここ(天国 )からは少しも聞こえないんだもん
ここは、なにもかも最高に ふわふわの安らぎの中にあるんだよ
ぼくたちは天使みたいに暮らしてるんだ、
何てまたうれしい、楽しくて愉快なんだろ
ぼくたちは踊ったり、飛んだり、 跳ね回ったり、そして、歌うんだ
聖ペテロが見ていらっしゃるところで。

聖ヨハネは仔羊を小屋から放す、
殺し屋ヘロデ王はそれを待ち受けてる、
ぼくたちは 一頭の かわいい罪もない仔羊を 犠牲に捧げることになった
聖ルカは、牛をためらうこともなく、犠牲に捧げる、
天上のワイナリーには ただで飲めるお酒がいっぱい、
天使たちは 美味しいパンも焼いてくれるんだよ

ほら、あらゆる種類の美味しい野菜が 天の農園には育っている
アスパラガス、いんげん豆、その他ほしいものが思うままに お皿一杯に!
美味しい りんご、梨、ぶどう、
天の農園の庭師はどんな果物でも作っちゃうんだから
牡鹿、うさぎ、みんな そこら辺りを楽しそうに走り回っているし、
獣肉の断食日になれば、あらゆるお魚が自分から喜んでやって来ちゃうし、
聖ペテロったら 実は元漁師だもん、
網と餌を持って 天の生け簀(す )へと向かったよ
お料理は、マルタさんが腕をふるってくれるんだって

天国の音楽ときたら、
地上のものなんかとは比べものにならない素晴らしさ
1万1千人もの乙女たちが 恐れも知らずにダンスし続け、
それを見てウルスラさんもニコニコ 
天国の音楽ときたら、
地上のものなんかとは比べものにならない素晴らしさ
聖チェチーリアとその仲間が演奏する 素晴らしいオーケストラ
天使たちの歌声で いつも気持ちが朗らかになって、
うきうきしちゃうんだな
さあ 起きて、
ここでは すべてのあらゆることが、
うれしい喜びのために 目を覚ましているんだから!
                        (意訳 : 山田 誠 )



(10)交響曲第5番 嬰ハ短調
 - マーラー自身のピアノで第1楽章、
   室内楽編成で「アダージェット 」


 北大西洋を 一路 ニューヨークへ向かうタイタニック号のサロンの片隅に置かれていたアップライト・ピアノは、今から 6年半前に ドイツ ライプツィヒのヴェルテ=ミニヨン社の音楽スタジオで 偉大なマエストロ グスタフ・マーラー自身が弾いたとおりの運指を、今 正確に鍵盤上で再現しながら、しかし弾く者の姿はなく 演奏を続けています。先ほどの「天上の生活 」を歌い終えたソプラノ歌手 E.S.嬢が 心のこもった拍手とともに退場すると、次の曲目は、交響曲第5番 嬰ハ短調 第1楽章 - 沈鬱な葬送行進曲 - です。
 まるで マエストロ・マーラーの魂が、タイタニックのサロンに置かれた再生装置付きピアノの椅子に 今しも どっかりと座して演奏しているがごとく、目に見えぬ指の運びに従って 楽器の鍵盤がリズミカルに引っ込んだり戻ったりしている様子たるや それは 実に不思議な眺めで、いつまでも見飽きません。フェルトの付いた長いハンマーが飛んできて 然るべきピアノ線を正確に叩いたり、誰も踏んでいないのにダンパー・ペダルが押下されたり、これがメカニカルに連動して ピアノの内側でもダンパーが勝手に上がったり下がったりする様子など、それはピアノそれ自体が、あたかも生きている一個の生命体であるかのよう・・・。
 もしや客席の「アルマ夫人 」には 亡きマエストロの遺影が見えているのではないか - などと ハートリーは 心の裡で想像していました。
 数少ない聴衆ながら、この時 おそらく誰しもが 約1年前 - 1911年 5月18日 - に亡くなった 偉大なマエストロの、生前の颯爽とした姿を それぞれ思い出していたに違いありません。
 
 マーラーが、この世から「飛び去った 」のは、夜も更けた午後11時05分のことだったそうです。その日 病床の病人の苦しい呼吸は不規則になり、戸外では まさにベートーヴェンの臨終の時と同様に 激しい嵐が吹き荒んでいました。
 
 ・・・その最期の日に マーラーは、まるでうわごとのように いくつかの断片的な言葉を呟いた - と伝えられています。
「シェーンベルク・・・(ぼくが支援しなければ )もう誰も残っていないじゃないか 」
アルマ夫人は 力の及ぶ限り 若いシェーンベルクを援助することを約束します。そんな健気(けなげ )な若い妻に対し、マーラーは 回復したらどこか旅行へ出かけようと言い出します。
「エジプトへ行って、ただ一面の青空だけの世界を見ようじゃないか・・・ 」
アルマ夫人は そんな夫の目を見つめながら、言ったそうです、
「もしあなたが治ったら、私の悩みもこれで最後だわ。あなた、おぼえていらっしゃる? 出会ったばかりの頃 私のことを『悩みのない顔をしているな 』なんておっしゃったでしょ。でも 私、たくさん悩んだわよ。もうこれ以上のお仕置きはたくさん。これからは 楽しくて悩みのない人生をおくりましょうよ 」
年上の夫であるマーラーは 優しく微笑みながら妻の髪を撫でたそうです、
「そうだね、まったくだ。神さまに治してもらえたら、また幸せに暮らそうね 」

 また、病室に届けられた白い籠に収められた花束に差してある手紙を見て、マーラーは 殊の外 喜んだと伝えられています。
「ぼくのフィルハーモニー・・・ 」
と、何度も口に出して言いました。それは宮廷歌劇場のオーケストラ - ウィーン・フィルハーモニーから届いた カードと花束だったのです。

 そして、やがて呼吸も困難になり 酸素吸入が施されるようになると、臨終の苦悶が訪れました。掛布団の上で、一本の指が微かに指揮をしていたそうです。何を振っていたのでしょう、自作の交響曲でしょうか。 いいえ、おそらく それは  ・・・ アルマ夫人は 後に書き残しています。
 - その唇に微笑がもれ、(彼は )二度 “ モーツァルト ”と 言いました・・・。
 しかし その直後 昏睡状態に陥り、数時間に及ぶ苦悶の末、彼女の夫の「美しい魂 」は、嵐の中 この世から飛び去ったのでした。

 マーラー自身が弾く第5交響曲から「葬送行進曲 」の重いリズムは、聴衆に1年前のマエストロの死に際しての 数々の痛ましい逸話を 聴衆と楽団員らに思い起こさせました。
 次は、同じく マーラーの第5交響曲から 第4楽章「アダージェット 」を、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、そして アコルディオン という 珍しい組み合わせのクァルテットによるアレンジで演奏します。
 タイタニック・サロン・バンドの選抜メンバーは、バンド・リーダーのウォーレス・ハートリー(ヴァイオリン )、ロジャー・ブリコー(チェロ )、フレッド・クラーク(コントラバス )、そして テッド・ブライリーのアコルディオンです。



(11) 「大地の歌 」から 第5楽章「春に酔える者 」 ピアノ版

 1912年 4月14日深夜、一等船室の大階段ロビーに据えられている巨大な柱時計が指す時刻も すでに午後11時を過ぎ、極寒の北大西洋上をニューヨークに向けて航行中の豪華客船タイタニック号の 一等船室サロンでは、今宵「マエストロ・マーラーの夕べ ~ 副題 “偉大な指揮者の 作曲家としての知られざる一面を聴く” 」と 題された音楽会が、些細なアクシデントやトラブルで 予定より遅れつつも 何とか進行していました。
 楽団の若きリーダー、ウォーレス・ハートリーが率いるサロン・バンドのレギュラー・メンバーは、たまたま この船に乗り合わせた 名門ロンドン交響楽団の 管・打楽器奏者の好意的な協力を得ながら、いよいよ今夜最後の演目となる、マーラーの遺作「大地の歌 」と題された交響曲から その 長大な最終楽章「告別 」を、室内楽編成にアレンジした特別な版で演奏するため、準備に要する時間を、しばらく聴衆への休憩に充てていました。
 しかし 今宵の かくもマニアックなプログラムに 好んで耳を傾けようとするリスナーは少なく、 サロンに座っている聴衆の人数は わずかに3人だけでした。
 ― このタイタニック号の処女航海を最後に 現役を引退しようというエドワード・スミス船長、同じく この船の精緻な設計を担当したハーランド・アンド・ウルフ社の設計技師トーマス・アンドリューズ氏 - 彼らは 互いに相手が 音楽に対していかに深い造詣を備え、また熱い愛情を持っていたかということを、航海の最終夜となる今宵 このサロンで ともにマーラー追悼プログラムを聴きながら会話を重ねることによって、初めて認識したのでした。
 そして もうひとり、客席の最前列中央に座って 音楽会の最初から一貫して静かに聴き続けている 黒衣をまとった30代の美しい女性 - ウィーンに留学経験のある サロン楽団員メンバーのひとり ジョック・ヒュームのたしかな記憶によれば、彼女の横顔は マーラーの未亡人アルマ夫人に間違いない ということでした。これが 今夜の演奏家の士気を高めている根拠にもなっているのでした。

 ヴァイオリンを脇に抱えたコンサート・マスター、ウォーレス・ハートリーを先頭に、ジョック・ヒューム(第2ヴァイオリン )、ジョルジュ・クリンズ(ヴィオラ )、ロジャー・ブリコー(チェロ )、フレッド・クラーク(コントラバス )、そして ハルモニウムとチェレスタなど鍵盤楽器を担当するテッド・ブライリーら、バンドのレギュラー・メンバーが サロンの低いステージに上がりました。その後ろから、エキストラである ロンドン交響楽団の フルート奏者、オーボエ奏者、クラリネット奏者、ファゴット奏者、ホルン奏者、さらに打楽器奏者が 続きます。器楽奏者たちのセッティングが済むのを待ちつつ ステージの脇で 若いメゾ・ソプラノ歌手 - 彼女は 先刻 アルマ夫人の歌曲を歌いました - が 緊張の面持ちで 譜面を睨みながら その可愛らしい小鼻に 小さなしわを寄せていました。

 ・・・その時です。
「ピアニストがいません 」
ジョック・ヒュームが気づいて 小声で ハートリーに告げました。
「また 爺さんか 」
リーダーは 心の中で舌打ちしました。肝心のパーシー・テイラー翁がいません。この大曲のアレンジでは オリジナルの金管パートを鍵盤楽器が代用することも多く、ピアノは大活躍しますから、彼なしでは演奏自体が成立しないのです。
もうひとりの鍵盤奏者テッド・ブライリーが 突き放したように言いました。
「爺さんは たしか 第4の第1楽章に参加して以降、ずっとパブで飲み続けているはずだよ 」
ハートリーは 信頼している若者に目で合図します。
「ジョック、すまないけど 呼んできてくれないかな 」
これを察した ヒュームが 楽器を置いて走り出そうとした その瞬間、泥酔しきって千鳥足の天才ピアニストは サロンに戻ってきました。
「パーシー・テイラー、只今参上 」
「一体 大丈夫かなー 」
客席のスミス船長などは 堪えきれずに 隣席のアンドリューズの脇腹をつつきながら笑いを押さえています。設計士も困ったように もはや笑うしかありません。
ハートリーは 相手の様子をうかがうように、一歩間違えば ただの泥酔者かもしれない ずっと年上のピアニストに話しかけました。
「ええと、テイラーさん、さきほどは 自動ピアノのアイディアを示唆してくださって ありがとうございました 」
その言葉には応えず、テイラーは 今度は 大声で ハートリーに告げました。
「俺は 去年の11月、ミュンヘンのトーンハレで 『大地の歌 』の初演を ブルーノ・ワルターの指揮で聴いて感動したくちだ。ホールにはコルンゴルトも来ていたよ 」
「はあ・・・ 」
「あれを 全曲演奏しないたぁ、作曲者に対する冒涜にも等しい。こら ウォーレス、偉大なシンフォニー『大地の歌 』を、今から 全曲 演(や )ろうぜ 」
今回ばかりは ハートリーも さすがにステージ上から言い返しました。
「第5楽章までは オリジナル・スコアしか用意していないのに、とても全部なんか出来ませんよ。第一 もう時間がありません。本当なら もう すでに終演の時刻なんですよ。スミス船長のご厚意のおかげで 何とか延長できているんですから。予定より 遅れているのは、はっきり言いますが、みんな アナタのせいなんですよ 」
テイラー爺さんは、にやりと笑いました。
「ふふん、しようがねえ。じゃ、せめて俺が これから第5楽章だけでも歌って、威勢よく お前らの演奏の露払(つゆはら )いをしてやらぁ 」
「う、歌うんですって? そんなに酔って! いくらアナタでも 弾きながら歌えるわけないでしょう 」
「俺は 一度聴いた音楽は決して忘れない。しかもここにはスコアもある。さあウォーレス、もう一度 譜を めくれ! 」
(・・・ああ、客席の“マーラー夫人”は、この有様をご覧になって、どんな顔をしておられるのだろう )と、傍らでジョック・ヒュームは ため息をつきました。
楽団員らの心配をよそに、客席からは 意外なことに スミス船長と アンドリューズからの ぜひ聴かせてくれ と言わんばかりの 大きな拍手が起きてしまいました。いよいよ目的地であるニューヨーク港 に到着する前夜であるという気持ちが 二人を高揚させているのでしょうか。
 パーシー・テイラーは ふらふらしながらもステージに上がり、ピアノの上に広げられた総譜をにらみつつ 両手をピアノに突きながら 前屈みの姿勢になりました。肩で息をしながら 大きく開かれたスコアを見おろしています。どこから見ても立派な酔っ払いで、今にもスタインウェイ・コンサート・グランドの中に どっと嘔吐するのではないか、と思われても仕方のないような姿勢を取ったまま動きません。
 いや、本当に吐くのか? と一同が不安に思い始めた次の瞬間、いきなりピアノの鍵盤を 叩き始めました。初見のスコア・リーディングで 些か乱暴ながら しかし意外にも よく通る声、まさしく キャラクター・テノールで 歌いだしたのです、マエストロ・マーラーが 生前 遺した最後の男声歌曲となった、文字どおり「酔っぱらいの歌 」を。

「大地の歌 」 第5楽章「春に酔える者 」
(詩:李白「春日酔起言志 」に基づき ハンス・ベートゲが翻訳、
   これをマーラー自身が 改変したもの )


     もし人の一生が 徒一場の夢だったら、
     努力や苦労することに 一体 何の価値がある?
     だから 俺は 思い切り酒を飲むんだ、
     飲めなくなるまで、酔いつぶれるまで、
     終日 酒に溺れてやる。
 
     五臓六腑、魂まで奈良漬けみてえに、
     とうとう べろべろに酔っちまったったら、
     よろめきながらでも 家に帰り着けるかな?
     玄関の戸口に無事たどり着けたら、このまま
     ひっくり返って、そこで眠り込んでしまいたい。

     目覚めたら 何か聞こえてくるのかな 
     さあ よく聴けよ、
     庭の樹に咲いた花の中で、
     鶯(うぐいす )が 一羽 鳴いてるじゃねえか
     いまだに俺は夢見心地だけど、そこで鶯に尋ねてみたのさ
     「もう春になったのか? 」って。

     そうしたら 鶯は囀(さえず )りやがる、
     「そうですよ、すでに春ですよ、
      冬の闇夜を切り裂いて、春がここにやって来ました」
     うれしいことを 言ってくれるじゃねえか、
     俺は 鶯の鳴き声に、すっかり聴き惚れちまったから、
     じっと見つめていると
     ここぞとばかりに鶯は、歌い、舞い、ころころと笑いやがるのさ。

     で、また起き掛けに迎え酒だ、こたえられねえ、
     手酌で杯を満たしたら、飲んでやる、
     ふふん、底まで飲んでやる
     そして酔った勢いで、ずっと歌い続けてやるよ、
     朝のお月さまが、その日の夜空に戻り昇って、
     俺の杯の水面に その輝く姿を再び映すまでの間な!

     え、それで もう歌えなくなったら どうするって?
     もう一度 しこたま眠ってやるのさ!
     春が来たからって それがどうしたっていうんだ、
     頼むから こんな酔っぱらいなんか、
     どうか このまま 放っておいてくれ!
                        (意訳 山田 誠 )

 “酔っぱらいの歌”を 歌い終えたパーシー・テイラーは、その想定外に見事だった弾き語りに興奮した 数少ない聴衆の喝采には 一瞥(いちべつ )も与えず、その代わり、ピアノから顔を上げるや否や 完全に醒めた表情で ハートリーと楽員達を 大声で 促しました。
「ほら ウォーレス、すぐに 第6楽章へ 入れ! 」 
すでに準備万端整っていた若いメゾ・ソプラノ歌手、室内オーケストラのメンバーと ウォーレス・ハートリーは 即座にアイ・コンタクトを交わし合うと、次の瞬間、今夜のプログラム 最後の演目である マーラーの遺作交響曲「大地の歌 」終楽章「告別 」冒頭 - あの 慟哭の第一音 - が、タイタニックの 一等サロンに 大きく鳴り響きました。すると同時に、その場にいた全員が 自分たちの立っている足元が 大きく揺れたかのような衝撃を 感じたのでした。



(12)「大地の歌 」から 第6楽章「告別 」 室内楽版

 タイタニック号が 予定どおり 明日には その目的地であるニューヨーク港へ到着しようという前夜 - 今航海 最後の晩となる 4月14日 - 豪華客船の 一等船室サロンでは 乗船楽団員を中心に編成された室内楽団によって、昨年没した ウィーンの大指揮者グスタフ・マーラーの一周忌と その功績を称えるためのコンサートが開かれていました。
 その進行は 予定より大幅に遅れており、只今の時刻は すでに午後11時40分、やっと最後の演目が 始まったところでした。
 それはマーラーの遺作のひとつで、独唱つきの交響曲「大地の歌 」の最終楽章・・・・ これには「告別 Der Abschied 」という標題が付けられていました。その最初の第一音は、深い慟哭に満ちたハ短調の和音でしたが、これが ホールに鳴り響いた瞬間、その大いなる感動は サロンで音楽を浴びている全員に - 聴衆にも また演奏家にも - まるでタイタニックの 巨大な船体が 大きく揺れたかのような衝撃を与えたのでした。
「素晴らしい ‐ 」
音楽への造詣も深いスミス船長は、思わず 呟きました。
「まったく - この 東洋的な深い嘆きの響きは、作曲者の人生への訣別を表現しているのでしょうか 」
と、隣席で タイタニック号の設計士トーマス・アンドリューズ氏も 小声で答えます。
「さもあらん。その謎の真相は これを意図した作者にしか解らないことだ。だが 唯一人 それを解き明かしてくれるマエストロも すでにこの世にはいない。世界は 実に惜しい才能を 失くしたものだ 」
船長は サロンの豪奢なソファに 深く座り直すと 腕を組み、真剣に 音楽に聴き入りました。
 客席最前列に座った「アルマ夫人 」も また 緊張の面持ちで微動だにせず 音楽家たちの演奏に向き合っています。

 交響曲「大地の歌 」 第6楽章「告別 」
 ( 前半は 孟浩然の「宿業師山房期丁大不至 」、後半は 王維の「送別 」
  - これらを ハンス・ベートゲが翻訳、
    さらにマーラー自身が ひとつに結合し、自由な改変を加え、追加を補したもの )


    夕陽が 西の彼方へ沈むころ 
    すでに 日没後の 涼しい空気が 辺りに満ちはじめ、
    やがて 迫りくる暗闇は 山も渓谷も 包みこもうとしている
    見上げたまえ! 月が、まるで 銀の船のように 
    ゆらゆら漂いながら 蒼天の湖へと昇ってゆく

    私は 松ヶ枝の暗い木陰に佇み、 
    涼しい夏の風を 身体いっぱいに受けている
    美しい小川のせせらぎが 心地よく、
    夕闇の隙間を 歌いながら 流れてゆく
    黄昏の徐々に薄れゆく光の中では
    花々も 枯れているのか 色を失ったのか
    もはや 判然とは しなくなってしまった

    憩いと眠りに満ち足りて、大地が息づき始める
    すべての憧れの夢を見ようとするかのように
    人生に疲れた人々は 家路を急いで帰る 
    彼らは みんな知っているのだ、
    とうに過ぎ去った青春の幸福が 再び 蘇(よみがえ )る場所、
    それは、彼らの夢の中だけにしかない - ということを

    鳥たちも その住処(すみか )とする巣の中で
    静かに 小さく羽をたたんだ
    世界中が眠りにつく 夜が訪れたのだ

    私が佇む松ヶ枝の 暗い木陰にも 夜の冷気が漂ってきた
    ここで 私は 友が来るのを ずっと待っている
    最後の別れを告げるため

    友よ、私は 君と一緒に
    今宵の 美しい夕暮れを 見たかったのだ -
    一体どこから 君は来るのだろう、 
    依然 私は独りで ここに佇んで 待っているというのに

    今まで 私は 楽器を携えて いろいろな土地を さすらってきた
    その道程で辿り着いたのが、
    ふわふわと草が繁る この肥えた土壌、
    この大地、ああ、この地は何と美しいんだろう
    大自然に命があるなら、この愛しい大地に永遠の愛を -

 孟浩然による原詩を基にした前半部分を過ぎると、王維の「送別 」を原典とする部分に移ります。しかし その前に しばらくの間、音楽は 室内オーケストラによる 美しくも感動的な経過部分を繰り広げるのでした。
 客席の聴衆は わずか三人だけ でしたが、浄化されつつある音楽の、その素晴らしさに 全員が固唾を飲んで真剣に聴き入っていることが、演奏している すべてのミュージシャンにもわかっていました。
 やがて 長い間奏の後、メゾ・ソプラノ歌手が 再び 朗詠を始めます。

    友が着いた、 
    彼は 馬から降り立つと、友に 別れの酒杯を 差し出した・・・ 

 と、女声歌手が そこまで歌った時です、突然 一等航海士のマードックが 音楽会場に駆け込んで来るなり 大声で叫びました。
「スミス船長、ああ アンドリューズさんも! ずっと お探ししていました。ここに いらっしゃったんですか。大至急 デッキへ ご同行ください 」
著しく興を削がれたスミス船長は 思わず 顔をしかめ、
「何があったと言うんだ、マードック君。今 世紀の名曲が演奏されている最中だというのに 」
と、静かな声でベテランの航海士を叱りました。これに マードックは 激しく首を振ると、今度は あたりをはばかるように 船長の耳元に口を近づけると、しかし 鋭く囁きました。
「よくお聞きください、船長。今から約20分前 本船は 氷山と接触事故を起こしました 」
「何だと? 」
たしかに 20分前、船長(だけでなくサロンの全員 )が、今 演奏を中断している この曲 - マーラーの「大地の歌 」終楽章 - その 冒頭で感じた大きな衝撃は、音楽による感動が 呼び起したものだけでは なかったのです。
「しまった・・・ 」
スミス船長は 不覚のあまり 血がにじむほど強く 自分の唇を 噛みました。その傍らで マードックの 早口の状況報告は 続いています。
「・・・ 氷山に気づいた時、即座に 面舵を命じ 全速後退させて 迂回には努めたのですが・・・なにしろ 発見した時には もう遅かったのです 」
「・・・ 」
「船体の破損は 些少ではありません。お願いします、大至急 アンドリューズさんと一緒に おいでください 」
小声ではありましたが マードックの言葉は アンドリューズにも はっきりと聞こえたので、彼も すぐさま 船長のほうを 振り返って小さく叫びました。
「キャプテン! 」
「アンドリューズ君、マーラーの音楽を 最後まで聴けないのは 誠に残念だが・・・ さあ、行かねばならぬ! 」
二人は 一瞬だけ名残惜しそうに ステージに立つ音楽家たちのことを 振り返りましたが、しかし すぐソファから立ち上がると 先に駆けだした航海士マードックを追うように サロンを後にしました。
- 音楽会が終了する前に 彼らが ここへ戻ってくることは、ありませんでした。サロンの演奏は、一旦 中断していた個所から 再開されたのです。

    ・・・ 彼は 友に言った 「君は どこへ 行くのか 」
    そして また尋ねた 「なぜ行ってしまうのか 」

    友は答えたが、その声は 服喪のヴェール に覆われていた
    「わが友よ、聴いてくれ。私は この世では不運だった
     独りで 今から どこへ行こうか 決めかねているが
     さまよい入る道は、山中のみ 」

    「私は 自分の孤独な心を癒そうと、
     憩いを求めながら さまよい続けてきた
     しかし 私が歩もうとする その果てには、
     故郷たる 終(つい )の棲家がある
     私は もう二度と流れ歩いたり、さすらうことはないだろう
     私の心は、ずっと 安らぎの時を待ち受けていたのだ 」

 いまや サロンの聴衆は、最前列中央に座る喪服の「アルマ夫人 」ただ一人だけになってしまいました。しかしバンドの楽団員は、何事もなかったかのように 演奏を続けます。なぜなら 今宵、彼らは マーラーの音楽の価値が わかる聴衆が たとえ一人しかいなかったとしても、その価値のわかる 一人の聴衆のために すべての演奏を 全うさせる決意だったからです。
 若いメゾ・ソプラノ歌手、エキストラで加わったロンドン交響楽団の管・打楽器メンバー、リーダー ウォーレス・ハートリー、セカンド・ヴァイオリン奏者 ジョック・ヒューム、ヴィオラ奏者 ジョルジュ・クリンズ、チェリストのロジャー・ブリコー、コントラバス奏者 フレッド・クラーク、鍵盤楽器奏者 テッド・ブライリー、そして個性的なピアニスト、酔いどれの天才パーシー・テイラー・・・

 ここからは 終楽章も大詰め です。浄化された春の美しさが 音楽という無形の媒体を通して 一斉に噴き出し始め、静かなクライマックスに向けて 今や盛りとサロン一杯に「咲き誇る 」のでした。
 
     愛しい大地に 春が訪れ、いっせいに百花咲き誇る
     木々は緑に覆い尽くされる、
     永遠に、遥か彼方まで、
     青々と光り輝き続けることだろう、 
     いつまでも、 永遠に・・・  
                    (意訳 山田 誠 )

 ウォーレス・ハートリーは、バンド・リーダーとして 「大地の歌 」の 素晴らしい終楽章を演奏しながら この音楽を 文字どおり肌で味わいつつ、マエストロ・マーラー自身は まさに この曲を 自分が葬られるべき場所 - 大地 - に立てる 壮大な「墓碑 」として構想 したのではないか・・・ と、直観で感じました。
 マーラーが翻案した詩「告別 」に登場する「主人公 」を 待たせ続けた挙句、ようやく訪れた「友 」の存在が象徴するもの とは、まさしく「死 」 以外の 何ものでもない・・・・と。なぜなら 主人公が向かおうとしている先「故郷たる 終(つい )の棲家 」、そここそ 人間ならば誰しも最期は 生まれ出で来たりし処へと帰ってゆくものだ ― という命題を、まさにマーラーが 述べているのではないか、という推測です。 
 かつて マーラーは、自身の 第4交響曲のスケルツォ楽章の中で、「死の舞踏 」を 演奏するソロ・ヴァイオリンの調弦を「スコラダトゥーラ (異なるチューニング ) 」で表記していましたが、これも「一緒に 同じ音楽を演奏しているにもかかわらず ソロ・ヴァイオリン奏者ひとりが 次元の異なる空間に存在している 」 - つまり「死 」の存在を象徴していることは明白で、マーラーは そこを「わが友ハイン( = 死神 )が演奏する 」と書き残しているではないか・・・・と、ハートリーは 演奏を続けながら、自分の考えを めぐらせ続けました。
 そうすると、この「大地の歌 」の終楽章 - 美しいけれど 一種謎めいた不思議な詩 - その結末の意味とは・・・? 
 孟浩然の詩による前半 「宿業師山房期丁大不至 」では 一人称で進行していたというのに、後半 王維の詩「送別 」を基にした場面では なぜか 三人称 - すなわち 「彼 」、「友 」 - の行動や言葉が それまで主人公だった筈の「私 」と 区別がつかなくなってしまう(しかも過去形になり )、馬から降りた「友 」と 待っていた「友 」とは、実は 同一人物の 生/死 を 表現しているのではないか・・・ さらに 結末の場面(シーン )まで辿(たど )りつくと、今度は 登場人物すべてが消え去り、その後には 大地の春を描く情景描写になってしまう・・・。
 もし この変遷が 単なる不注意からではなく 作者マーラーによって、そこに何らかの 意図的なもの が 隠されていたのだとしたら・・・? 
 ここで ハートリーの仮説は、ひとつの結論へと至りました - 「大地の歌 」の主人公のもとを「友 」である 彼自身の「死 」が 訪れる、その最期の場面は、ひとつの命が まさに この世に別れを告げ ながら、同時に 自己を滅却することによって 「大自然(大地 ) 」の中へと「永遠に ewig 」同化していく 魂 の変容 した姿( =現象 )に 他ならないのではあるまいか - と!



(13)沈没まで あと 一時間半 ・・・ 「楽器を持って甲板へ! 」

 さて、「大地の歌 」をもって タイタニック号 一等船客サロンにおける 今宵の特別な音楽プログラムは、その幕を閉じました。
 当初 予定もしていなかった曲目 - 自動ピアノによるマーラー自身の演奏というハプニングなど - も含め、サロン楽団のメンバーが そのすべてを 演奏し終えたのは 船内のカレンダーが日付を翌日に変えた、4月15日 午前 0時 5分頃のことでした。
 ・・・ とうとう唯一の「聴衆 」になってしまった 喪服を装った一等船客の女性「アルマ夫人 」は、最後の演目である「大地の歌 」が まさに永遠の中に鳴り終えたのを確かめると、最前列の席を立ち上がり サロンのミュージシャンたちに対し、たったひとり 心からの拍手を贈り続けました。

 「マーラーの未亡人から喝采を受けた 」という この上ない名誉に酔いしれたセカンド・ヴァイオリン奏者ジョック・ヒュームは、自分の楽器を椅子に置くと、「アルマ夫人 」の許へ 今にも駆け降り、挨拶しようとしました。
 しかし その時です。サロンの3つのドアが 外側から一斉に すべて開け放たれるやいなや、いずれも上等な身なりの、けれど その全員が白い救命胴衣を身に着けた 一等船客たちの団体が、雪崩のように どっとサロン内に押し寄せてきました。
 肝心の演奏中には ごく僅かな人数しかサロン内には いなかったというのに、今や - 皮肉なことに 演奏が終わった途端 - この同じ場所は 溢れんばかりの超満員です。ヒュームが話しかけようとしていた「アルマ夫人 」も とうとう その人混みの中に紛れてしまい、もはや姿は 見えなくなってしまいました。
 物凄い人波に揉まれながら、一等航海士のマードックが、乗船客たちに 大声で注意を繰り返している言葉が、呆気にとられている ステージ上の演奏家たちの耳にも届きました。
「どうか落ち着いてください、皆さん。大丈夫ですから。皆さんの救命ボートは しっかりと確保しております。この後 ご婦人とお子さまから順番に ボートへと移って頂く手筈を 私どもでは 只今 整えておりますので、どうか このサロンにて、今しばらく お待ちになってください 」
乗船客たちは誰しも 不安気な顔色で 口々に「この船は本当に沈むのか 」、「部屋に置いてきた 大事な荷物はどうしてくれるんだ 」、「貨物室に預けてある高価な家具や自家用車は一体どうなるんだ 」などと 騒ぎ始めてしまいました。
「ああ、困ったなー 」
マードックは、一緒に連れてきた見習いの航海士 マルティン・クレッツァー少年 - 彼は先ほど マーラーの第4交響曲の第1楽章で、トランペット吹奏で参加した 船内信号ラッパ手でした - を 自分の側(かたわら )に待機させながら、パニック状態一歩手前の船客たちを いかに落ち着かせたらよいか途方に暮れて 天井を仰ぎました。
 一方、サロンが乗客で一杯になったことに気づくと、自然に タイタニックの音楽家たちは、自分たちの使命に目覚めていました。
 まず、エキストラを務めてくれたロンドン交響楽団のメンバーらに 深く礼を述べると、若い歌手らとともに 彼らを ステージから去らせました。そして船内を「いつもの日常 」に戻すべく 必要な軽音楽のレパートリーを すばやく仲間同士で打ち合わせたのです。
「よし、『アレクサンダー’ズ・ラグタイム・バンド 』 を演(や )ろう! 」
リーダーのウォーレス・ハートリーが告げると、全員が一斉に楽器を構え、次の瞬間 ピアニストのパーシー・テイラーが アウフタクトで「かっこう 」の逆行するベース・ラインを力強く叩き始め、これに続けとばかりに 楽団全員で ハ長調の軽快なラグのイントロから演奏が始まりました。シンコペーションを効かせたアーヴィング・バーリン作曲の 近年の大ヒット『アレクサンダー’ズ・ラグタイム・バンド 』です。短いイントロダクションに続けて、軽くスキップする 有名なメイン・テーマに移ると そこからは ヘ長調に転調しています。そのツービートの明るい音楽は、まるでサロンの人波を切り分けながら進む 楽しいカーニバルの行列のようです。
 一等船客たちは、まるで「 いつものように 」サロンで音楽が始まったことに気づきました。
「おや、音楽だ 」、「あら、 音楽が始まったわね 」
家族連れで船旅を楽しんでいた裕福な階級の父親は、怖がっている幼い子どもたちを 安心させようと、演奏を始めたハートリーら楽師たちのほうを指さしながら言いました。
「なあ 坊や、考えてもごらんよ。もし本当に お船が沈没するとしたら、そんな大変な時に、ほら、あんな楽しい音楽を 陽気に演奏したりする理由(わけ )がないじゃないか。だから、ね 心配いらないよ 」
周囲からも 互いの安心を確かめ合うような声が 徐々に広がっていました。
「それもそうだ。真実の緊急事態だったとしたら、あんなに のんきに音楽なんかを演奏しているわけがないよ 」
そして バンドが アーヴィング・バーリンの演奏を終えると、この航海中 ほとんどなかったことでしたが、サロン中が めずらしくも 拍手に包まれたのです。
「やっぱり大丈夫だよ。だって これは “ 不沈船タイタニック号 ”だもの 」
その喝采の裏には、乗船客らが 自分たちの旅の行方への安堵感を 無理にも得たがっている、という空気が感じられました。ゆえに 楽師たちが奏でる 一種 日常的な 音楽演奏が、彼らにとって 心理的な救いになっていることは 明白でした。
 さて、次は パーシー・テイラーが独りで アントン・ルビンシュタイン作曲の「へ調のメロディ 」を ソロ・ピアノで弾きはじめました。可憐で親しみやすい この人気曲を テイラー翁が演奏している最中、他のバンド・メンバーと 急きょ 次の演奏曲目について打ち合わせをしていたウォーレス・ハートリーのもとへ、ようやく甲板からサロンへと ひとり戻ってきたトーマス・アンドリューズが近寄ってきて 話しかけました。
「ハートリー君、素晴らしいぞ、君たちは。音楽の力は やはり偉大だな 」
「アンドリューズさん・・・ 」
「さっきは マーラーのエンディングが聴けなくて 実に残念だった 」
「 ・・・ アンドリューズさん、教えてください 」
ハートリーは、誰もが知りたがっている船の状況を おそるおそる尋ねました。周りをはばかって アンドリューズは、小声で答えます。
「君たちにだけは 本当のことを言っておこう。 ・・・さっき スミス船長と一緒に タイタニックの事故状況を検分してきたばかりだ。 船首から船尾に向かって浸水が拡大、ゆっくりと沈没を始めている。 - 実は もう絶望的だということがわかった 」
彼はそこで苦しそうに声をひそめました
「 - あと1時間半ぐらいで、この船は沈むんだよ 」
ハートリーは驚いて 聞き返しました。
「で、でも アンドリューズさん、あなたは 数時間前 タイタニックは不沈船だっておっしゃったではありませんか 」
「うん、もちろん何もなければね。でもタイタニック号は、巨大な氷山と接触したとき、右舷船首に100メートルもの長さの裂傷を受けていた。それは、私が設計した安全防水隔壁の限界を超える規模だったんだよ 」
その場に集まっていた音楽家たちは皆、深刻な現実を 知って 黙ってしまいました。独り、テイラー翁が弾く ノスタルジックな「へ調のメロディ 」だけが サロン全体に鳴り続けています。
「それで・・・ 実は 諸君に頼みがあるんだ 」
アンドリューズが そこで言葉を繋ぎました。
「はい、どんなことでしょうか 」
ハートリーは尋ねます。
「それこそ ここだけの話なんだが・・・・ 実はね、乗船客数に対して救命ボートの数が 全然足りない。三等船客を避難させる頃には 船全体がパニックになっているかもしれない。 そこで・・・ なんとか 少しでも お客様を落ち着かせてほしいんだ 」
「しかし・・・ われわれに何ができるでしょう。情けないですが、私たちは 海難救助のお手伝いどころか、ボートをつなぐ綱の解き方さえ知らないんですよ 」
「君たちにしか出来ないことだよ。いいかい、このまま音楽を演奏し続けてほしいんだ。音楽には 精神安定の効果も期待できるということが、今の諸君の演奏によって実証された - 」

 その時、一等航海士マードックと、若い見習い航海士マルティン・クレッツァー少年の二人が サロンの入り口で 一等クラスの船客達を 大声で呼ぶ声が ここまで聞こえてきました。
「さあ、お待たせしました。救命ボートの用意が出来ましたので、ゆっくりと甲板へ出てください、どうぞ 」
「一等船客の皆さま、ボートには ご婦人とお子さまから 優先的にお乗り頂きます、さあ どうか 一列にお並びください 」
アンドリューズは振り向くと、今度は 懇願するようにハートリーに言いました。
「さあ、楽器を持って、お客様と一緒に 甲板へ上がってくれ、頼むよ 」
「か、甲板で、演奏するんですって? 」
「だって乗船客は全員 避難するため甲板に行くんだもの。 - あ、凄く寒いから、厚いコートを着て出たほうがいいと思うよ 」
「う ・・・ 」
自分は 今宵 北大西洋の氷海で 殉職することになるのであろうか - と、ハートリーが 初めて 死を意識したのは、まさに このときでした。彼の頭の中では、故郷で彼を待っている 若い婚約者マリアの泣き声が、一瞬 聞こえたような気がしました。
「ちゃんと無事に帰って来るって、アナタ 約束したじゃないの! ウォーレスの ウソつき、アナタのことなんか きっと忘れてやるんだから ! 」



(14)沈没前の 最期の演奏・・・
 
 すでに船体は 大分 傾いていました。
 バンド・マスター、ウォーレス・ハートリーは、徐々に喧騒を増してきたサロン内で 楽団メンバー全員を 一度招集しました。そして 先ほどのアンドリューズから受けた要請を告げると、全員に意見を求めました。すると、
「ふふん、やってやろうじゃないか。音楽が実用に役立つなんて言われたの、初めてだよ 」
と、意外にも、彼らは 皆 陽気になって その企画にも大乗り気です。
「ヘンデルの 『水の上の音楽 』と、シュトラウスの 『青きドナウ 』を演(や )ろう 」
「いいね、オッフェンバックの 『ホフマンの舟歌 』 も忘れるな 」
「お前ら、このスタインウェイ・コンサート・グランドを 甲板まで担いで運んでくれたら、 ショパンの 『バルカロール 』を弾いてやるぞ!」
と、パーシー・テイラー翁が 言い放つや、他のメンバーも 一斉に躁状態になりました。
「いや、貴方はむしろ モーリス・ラヴェル氏の 『海原の小舟 』をお弾きになるべきだ 」
と、フランス系のミュージシャン、ロジャー・ブリコーが口をはさめば、
「ああ、それを言うなら 俺たちが もしオーケストラ編成だったら、クロード・ドビュッシーの 交響詩『海 』を、全曲 演れるのになあ!」
と、テッド・ブライリー。すかさず、これに テイラー翁、
「ああ、それを言うなら タイタニック号が オペラハウスだったら、リヒャルト・ワーグナーの 『さまよえるオランダ人 』を、これから 甲板で上演できるのになあ! 」
音楽家たちは 互いの肩を激しく叩き合いながら 爆笑しました。もはや冷静さを保っているのは、リーダーのハートリー独りだけのようです。
「静粛に、ジェントルメン 」
彼は素早く 考えを巡らすと、落ち着いて 全員に指示を与えました。
「バンドを 二組に分けることにしよう 」
一同は顔を上げました。
「 船の右舷側甲板には ぼくハートリー(ヴァイオリン )、ジョック・ヒューム(ヴァイオリン )、ジョルジュ・クリンズ(ヴィオラ )、それから テイラーさんのチェロ、以上4名のクヮルテット編成で。 」
メンバーは指示を聞きながら、いずれも真顔になって頷きました。ピアノだけでなく、実は 一流のチェリストでもあるテイラー翁、すでに愛用のチェロを収めたケースをしっかりと小脇に抱えています。
「あれ、いつの間に? 」
「備えあれば 憂いなし じゃ 」
「 ・・・ ええと、それじゃ 船の左舷側甲板には テッド・ブライリー(アコルディオン )、ロジャー・ブリコー(チェロ )、フレッド・クラーク(コントラバス )のトリオ編成で、両側の一等船客の皆さんが 救命ボートへ乗り移る甲板で、それぞれ持ち場に着き次第 すぐ演奏を始めることにしよう 」
「ラジャー(了解 )! 」

 寒風吹きすさぶ 真夜中のタイタニックの両甲板上で、二組のサロン・バンドは ほぼ同時に演奏を開始しました。
 ハートリーが加わる四重奏団は、右舷甲板上で まずポール・リンケ作曲の優雅な「ウェディング・ダンス 」を始めました。
「ところで、ウォーレス、考えてみろ。乗船客たちは 音楽が鳴っている間は この船は大丈夫だと信じきっているわけだろう 」
と、上半身を揺らして大きくリズムを取りながらチェロを弾くテイラー翁が、ハートリーに話しかけました。
「そのとおりです、テイラーさん 」
と、テンポを留めながらハートリーも器用に答えます。
「 - では 音楽が止んだ時は? きっと乗客は不安になるだろう 」
「そうですね、だから 私たちは 容易に音楽を止めてはならないんですよ 」
「それは 我々の音楽が止んだ時 = すなわち船の沈む時であると、乗客に知らせることになってしまうからだと 」
「うーん、結果的に そうなってしまう懸念は、あります 」
「つまり おれたちが 音楽の演奏を続けている間は 船は沈むことはない 」
「・・・ ? 」
「 - と 言うことはだ、おれたちが 演奏を止めない限り、タイタニック号は 決して沈まないという理屈だな 」
ハートリーの隣で演奏していたジョック・ヒュームが そこで口を挟みました。
「ちょ、ちょっと、それは あんまりな詭弁じゃないかな、テイラーさん 」
しかし 今度はハートリーが弓を上げて、若者を制する合図をしました。
「いや、ジョック。ある意味で テイラーさんの言うとおりかもしれない。おもしろいよ、これを信じて ぼくたちは音楽を演奏し続けようじゃないか 」

 一方、左舷側からは 6号ボートが アメリカの億万長者夫人モリー・ブラウンを含む28人を乗せて 海上へ出ました。ブラウン夫人は、甲板上で 三人の音楽家たちが演奏を始めたことに気づくと、離れゆくボートから手を振ってくれました。昨日まで船上のサロンで演奏している間、しばしば彼女からチップを貰っていたチェリストのロジャー・ブリコーは これに応えようと、仲間内に告げました。
「 『岸辺のモリー 』を演ろうよ、“モリー” ブラウンさんが無事に岸辺(陸地 )まで たどり着けるように祈ってさ! 」
「賛成 」
と、アコルディオン担当のテッド・ブライリーは即答。コントラバス担当のフレッド・クラークは、答えるより先 もうすでに イントロダクションのベースを ピッツィカートで ぽんぽんと弾(はじ )き始めてます。
 それは、オーストラリアの作曲家 パーシー・グレインジャーの「岸辺のモリー Molly On The Shore 」 - リズミカルなコントラバスのピッツィカートが刻む伴奏に乗せ、チェロとアコルディオンが八分音符で旋回する 楽しい無窮動風のアンサンブルを、彼らは いつまでも繰り返すのでした。

 一方、こちらは 右舷側です。
 演奏を続けるハートリーたちの目の前を、救命ボートへと順次 乗り込む一等船客たちの列が長く伸びています。次に降ろされるボートの順番を待っている裕福な人々の波の中、喪服の上に漆黒のコートを羽織って 不安そうに闇夜の水面を眺めている ひとりの美しい女性がいました。
 その女性(ひと )は、今宵の サロン・コンサート - マエストロ、マーラー追悼の音楽会 - を 最初から最後まで聴いてくれた 唯一のオーディエンスだった 「アルマ夫人 」ではありませんか。彼女の姿を見出した ジョック・ヒュームは、思わず楽器を抱えたまま 避難の人混みをかき分け、救命ボートのそばまで駆け寄ります。そして、彼女に向けて かろうじて 一言だけ叫びました。
「マダム、どうか ご無事でありますように ! 」
 「アルマ夫人 」は、今まさに 降ろされつつある 9号ボートに乗り込もうとするところでした。肩に羽織った高価なコートの隙間から、カンパネッラ(鐘 )がデザインされた白いカメオの、その黒衣に映えるブローチが目に入りました。彼女はヒュームの声に振り返り、そこに 片手にヴァイオリンを提げた若い音楽家が 自分を見送っている姿をみとめると、一瞬驚きに目を丸くしました。そして、ボートの中から 若いヴァイオリニストのことをゆっくりと見上げ、にっこりと微笑むと、黒皮の手袋をはめた両手を その豊かな胸の前で組み、少しドイツ訛りのたどたどしい発音ながら、よく通る声で 明瞭に英語で言葉を返しました。
「ミスター、今宵のコンサートは 最高に素晴らしかったですよ。 あなたがたジェントルマンのことを、わたし 決して忘れません! 」
ヒュームは これだけで もう満足でした。尊敬する マエストロ、グスタフ・マーラーの未亡人「アルマ夫人 」から頂いた称賛の言葉を深く胸に刻みながら、彼は これから人生最後の役目となる仕事に殉じようと、心の中で誓いを立てました。

 船の海水位は、船首に表示されたTitanic というプレートの位置にまで達しました。タイタニック号は 左舷側に大きく傾き、甲板の傾斜も急角度になっています。徐々に迫りくる船外の海水の高さを睨みながら、一等乗船客の救助へと走り回る船員らの姿を監督しつつ 甲板を歩く エドワード・スミス船長が、ハートリーたち楽団員の前を 厳粛な面持ちで通り過ぎようとしました。
「船長、スミス船長 」
ハートリーは 遠慮がちに声をかけました、想定外の非常事態を 受け入れざるを得なくなった責任者としての船長の立場を 察したためです。
「 ・・・ああ、これは音楽家の諸君ではないか。ご苦労だね、先ほどは サロンで演奏途中に中座してしまって、たいへん失礼した 」 
「 - いえ、とんでもない 」
「マーラーの『大地の歌 』 、あの最後の部分が聴けなかったことが 私には心残りだった。だが 今となっては、心残りは 他にも数えきれぬほどあるがな 」
「・・・ 」
「船員たちが 救命ボートを下す作業も どうやら軌道に乗ってきたようだ 」
「はい、ちょうど スミス船長と ご一緒に 今宵のコンサートを聴いてくださった アルマ・マーラー夫人が、ボートへお乗りになったところですね。今、うちの若い楽団員が 見送っているところでした 」
と、ハートリーの説明を聞くと、船長は意外な顔をしました。
「いや? あの婦人は マエストロ・マーラーの妻などではないぞ。タイタニックの乗船名簿には アルマ夫人の名前など 記載されてはおらぬ 」
「え? でも サロンで 船長ご自身が 『こんばんは、アルマ夫人 』 って、彼女に声をおかけになった、と聞いておりますが 」
それを聞くと、スミス船長は 少しだけ笑いました、
「ははあ、たしかに 彼女とサロンで挨拶を交わしたおぼえはあるが、『こんばんは、カールマン夫人 』と、私は言ったんだよ。“カールマン” が “アールマ” とでも聞こえたんだろうね。 いや、あの女性(ひと )は ウィーン出身で、ブルガリアの王侯貴族の末裔だった実業家の若妻だ。しかし気の毒に、昨年 その夫を亡くされたそうでね。聞くところによると、夫カールマン氏が所有されていたニューヨークにある会社の残務処理をするため 去年から何度も大西洋を往復しているということだ 」
「それで 喪服を着ていらっしゃったんですね ・・・ 」
「では 失礼するよ、私は 左舷側の様子も見に行かなければならぬ。諸君に 神のご加護が あらんことを 」
そう言って 立ち去ってゆくスミス船長の、どこか寂しげな後ろ姿を見送りながら、一方でハートリーは 何だか拍子抜けしていました。 - 何ということだ、ジョックのカン違いだったとは、人騒がせな。モチベーションを 返せ。
 そんなハートリーの表情を 読みとってか、傍で二人の会話を聞いていたパーシー・テイラー翁が 近づくと、彼にそっと耳打ちするのでした。
「いいか、ウォーレス。ジョックのヤツには “マーラー夫人”が 本物じゃなかったっていう事実を、わざわざ知らせたりするなよ 」
「え? 」
隣に立つ 無口なヴィオラ奏者 ジョルジュ・クリンズも 表情を変えずに 言い添えました。
「そうそう。言わないほうがいいことって、世の中には あるものなんだよ 」
よくわかっているさ、と 知らせるように ハートリーも 深く頷いてみせました。
 今や タイタニック号は、船体を右舷側へと大きく傾け、その船首は すでに海中へと没しています。そこへ 「グスタフ・マーラー夫人 」の乗った救命ボートを見送った ジョック・ヒュームが、笑顔で 仲間たちの許へと戻ってきました。その表情は どこか満足気で 幸せそうにさえ見えました。
 若者を出迎えた音楽家たちもまた 爽やかな笑顔を 互いに交わし合うと、サロン・バンドのリーダー、ウォーレス・ハートリーの合図のもと、一斉に楽器を構えます。それが、彼らの 最期の一曲でした。



(15) 最終回
   「 美しい トランペットの鳴り渡るところ 」


 1912年 4月15日 - それは まさしく「終わりなき春 」 - の、夜明け前のことです。
 タイタニック・バンドのリーダー、ウォーレス・ハートリーが故郷に残してきた 若く美しい婚約者マリア・ロビンソンは、玄関のドアがノックされる音で目を覚ましました。
「あら、外にいるのは 一体 誰かしら、
 わたしを こんなに優しく、目覚めさせられる人といえば? 」
 
 ハートリーは 気がつくと 彼女の屋敷のドアの外にいる 自分自身の存在が、グスタフ・マーラーの ある歌曲の 「 内側に立っている 」ことを発見しましたが、あまり驚きませんでした。
「そんなの ボクに決まってるだろう、お前の心の恋人じゃないか、
 さあ、早く起きて 部屋に入れておくれよ、ここはとても寒いんだ 」
それは既視感 - デジャ・ヴ - にも似た 不思議な感覚でしたが、彼の口からは 発すべき言葉が 自然に流れ出しました。
「マリア、お前は ボクを ここにずっと立たせておくつもりじゃないだろうね、
 そうでなくても もうボクは かれこれ 6時間以上も立ちっ放しだったんだから 」

 そんなに長く待たせていたかしら、と 部屋の内側でマリアは思いました。 
― でも それ言うんなら、わたしのほうこそ アナタの帰りを ずっと待たされっ放しだったんだからね、と 少しふくれつつも 大喜びで飛び起きると、歓迎の言葉と共にドアを開け、彼を 部屋の中へ招き入れました。
「お帰りなさい、いとしい ウォーレス!
 今回の航海は とても早く帰ってこれたのね 」
そう言いながら、マリアは 嬉しさのあまり 手を伸ばし、恋人の手を握ろうとしました 
- その手・・・ びっしょりと濡れた、氷のように冷たい 彼の白い手に触れた瞬間、彼女は すべてを理解したのです。そして すすり泣きを始めました。
「・・・もう会えないのね 」
ハートリーは 優しく、彼女に微笑みかけました、
「ぼくには美しい朝焼けの広がりが見える、朝焼けに、二つの明るい星
 それは マリア、お前の 両方の瞳のことさ 」
 遠くでは ナイチンゲールが鳴いています。
「・・・ああ、泣かないでおくれ、マリア。約束を守れなくて 本当にごめんよ。
 でも、ぼくの花嫁となる女性、それは お前以外に この大地には 他に誰もいない! 」
「・・・ 」
溢れ出る涙と 嗚咽に とうとう声が出なくなってしまったマリアを 慰めるように、ハートリーは 静かに歌いました。
「ああ、青き海原、銀色に輝く水面(みなも )
 そこへ ぼくは戻らなければならない
 光る波濤を越えて、あの 青き大海原のただなかへ・・・
 そこでは、遥か遠くから 美しく鳴り続けるトランペットの響き が 聴こえてくる
 今は そこが、ぼくの住居(すまい )なのだから 」

 前日の晩、マーラーの 没後一周年記念のコンサートを挙行した タイタニックの一等サロンで、見習船員マルティン・クレッツァー少年によって 24小節だけ吹奏された、あの美しいトランペットの音色がウォーレス・ハートリーの耳の奥深くに 甦(よみがえ )ってきました。
― その音は、地上では葬送のラッパでありながら 同時に 天国では歓迎と祝福の合図でした。
 そのマルティン少年の傍らに立っているのは、マードック一等航海士、エドワード・スミス船長、トーマス・アンドリューズ。楽器を抱えた 仲間の楽団員たち ― ジョック・ヒューム、ジョルジュ・クリンズ、ロジャー・ブリコー、フレッド・クラーク、テッド・ブライリー、そして パーシー・テイラー・・・  彼らは 皆 一緒でした。

 今、まさに太陽が燦々と昇ろうとしています、まるで 昨夜の不幸など 何もなかったかのように。
 マリアは、昇る朝日とともに その姿を 徐々に消し去りつつある ハートリーの面影を 追いかけながら、自らの想いをふりしぼるかのように 最後の言葉(テープ )を 彼に投げました、
「さようなら、ウォーレス。 わたし、アナタのことを、決して 忘れたりしないよ! 」


歌曲「美しいトランペットの鳴り渡るところ 」
原詩編纂:ブレンターノ兄弟
補  筆:グスタフ・マーラー


  「外にいるのはだれ、戸をたたくのはだれ、
   こんなにこっそりとあたしを起こすのは? 」

  「きみの最愛の恋びとだよ、
   起きて、ぼくを中へ入れておくれ!
   もっと長く立たせておくつもりかい?
   もう朝焼けが見えるよ、
   朝焼けと、明るい二つの星が -
   恋びとのそばに、ぼくは いたいんだ!
   ぼくの心から愛するひとのそばに! 」

 娘は起き出して、彼を部屋に入れ、
 彼に歓迎のことばを告げた。
  「ようこそ、いらっしゃい、いとしいひと!
   長く待たせちゃって、ごめんなさい! 」

 彼女は 雪のように白い手を差し出した。
 遠くの方で 夜うぐいすが歌っていた。
 娘は さめざめと泣きはじめた。

  「ああ、泣くんじゃないよ、かわいいひと!
   今年中にきみはぼくのお嫁さんになるんだ。
   この地上では、きみ以外に誰もなれない!
   ぼくのお嫁さんにきっとしてあげるよ!
   おお、この緑の大地の上の恋!
   ぼくは緑の荒野に戦いに出かける -
   ここからははるかな緑の荒野に!
   美しいトランペットの鳴りわたるところ、
   そこに ぼくの家があるんだ、緑の芝に埋もれて! 」
                         
                  ( 対訳:西野茂雄 )


 ・・・ウォーレス・ハートリーのなきがらは、タイタニック沈没の二週間後、北大西洋の氷海上で発見されました。愛器を胸に抱えたまま 凍りついていたとも伝えられます。遺体は引き上げられ、ホワイト・スター・ライン社のアラビック号によって故国イギリスへと運ばれました。
 最期まで 己が職に殉じた、勇気ある行動によってイギリス中の敬意を集めることになった楽師の、その故郷での葬儀には、なんと1,000人以上もの人々が参列したそうです。

 彼の婚約者だった マリア・ロビンソンは、その後、終生 愛するウォーレス・ハートリーの冥福を祈り続け、その後 1939年に亡くなるまで、生涯 独身を 通しました。


Special Thanks To Mr.Hubert Stuppner
Eine Mahler-Soirée auf der Titanic am 14. April 1912
▲ マーラーの音盤紹介を含む オリジナル記事は ⇒ こちらから

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