スケルツォ倶楽部 Club Scherzo
「空中に消えた音楽を つかまえることは、誰にもできない 」
タイトル You Can Never Capture “IT” Again … ⇒ もくじは こちら
こんなことは できないのだ

“When you hear music,after it's over,it's gone in the air.
 You can never capture it again. “  ( by Eric Dolphy

 音楽は 聴きおわった後、 空中へと消えてしまうので、
 これを 再び つかまえることなど 誰にもできないのだ (エリック・ドルフィー


エリック・ドルフィー Eric Dolphy
ラスト・デイト 」 Last Date

ラスト・デイト Last Date_Fontana (2) ラスト・デイト Last Date_Fontana (1)
エリック・ドルフィー Eric Dolphy (alto sax、flute、bass‐clarinette )、
ミシャ・メンゲルベルグ Misja Mengelberg (piano )、
ジャック・ショールス Jacques Schols (bass )、
ハン・ベニンク Han Bennink (drums )
1964年6月2日、アムステルダム録音

 写真左 )Limelight / LS 86013 の復刻CD盤(ユニバーサル UCCU-9534 )は“stereo”表示ですが、(写真右 )同じ音源による Fontana(PHCE-10021 )盤で聴けるオリジナルのモノ音源に“擬似ステレオ加工”がされているものと判明。
 1964年6月29日、ベルリンのアッヒェンバッハ病院にて 36歳の若さで 突然 帰らぬ人 となった、天才エリック・ドルフィー
 この「ラスト・アルバム 」は、ドルフィーが その早過ぎた死の直前に ヨーロッパの優秀なモダン・ジャズ演奏家らと遺した 貴重な録音として有名です。全曲充実した演奏が たたみかけるように続きますが、特に 最後に収録されている一曲 - いかにもドルフィーらしい キリモミ状の 個性的で不思議なメロディ・ラインをもった佳曲 - 「ミス・アン Miss Ann 」 の最後の音が鳴り終わった瞬間、ドルフィー自身の言葉 “When you hear music,after it's over,it's gone in the air. You can never capture it again. ” が、それまでの熱気も冷めやらぬ スタジオの空気を切り裂くように、その「死者 」の声 が流れてくることによって、これを初めて聴いた人は、誰しも 大きな衝撃を受けたことでありましょう。

 ドルフィーは 1964年 6月 2日(火 )の夜、オランダのヒルヴェルサムにあるラジオ放送局(Vara Radio )の 第5スタジオで(聴衆入り ) 本来は放送プログラムに乗せる目的で、レコーディングを行ったのでした。それは、オランダを訪れる(主にアメリカの )ジャズ・ミュージシャンを 番組がスタジオに招いて、普通はライヴ(生中継 )で インタヴューと演奏を放送するという企画でした。が、ドルフィーの場合 何らかの理由で(それは幸運にも )貴重な演奏とインタヴューでの発言が、モノラルではあるものの 良好な音質で、しっかりと「録音 」されたのでした。
 その翌日(3日 )朝、ドルフィーは ロッテルダムからパリへと飛び、そこで数か月後に結婚する予定にしていたフィアンセである若いバレリーナ、ジョイス・モルデカイと 最後の3週間を過ごしたことが知られています。そして その間、当時パリに在住していたドナルド・バード(トランペット奏者 )や フランス人のピアニスト、ジャック・ディーバルらとセッション演奏を行い、実は その際に遺された録音集が「コンプリート・ラスト・レコーディング(ディスク・ユニオン ) 」として だいぶ後になってから CDでリリースされることになります。けれども演奏内容の質の高さや 広く親しまれてきた知名度などから、一般に「ドルフィーのラスト・アルバム 」と言えば、やっぱり普通は こちら - オランダにおける放送録音「ラスト・デイト 」のほう - を指して語られることが多いように思われます。

 その活動期間は 実質6年という短いものでしたが、アルト・サックス、フルート、バス・クラリネットという3つの楽器を いずれも極めて高い技術でコントロールし、個性的で比類なきインプロヴィゼーションを展開した、ドルフィーは、唯一無比・孤高の即興演奏家でした。
 その独特のハーモニー感覚とタイム感覚、それらを裏付ける演奏技術の確かさは「一流 」、かつ「本物 」でした。
 かつては よくオーネット・コールマンらと同じフリージャズ・ミュージシャンとして括られてしまっているような文章に出くわすことがありましたが、凡百のフリー系ミュージシャンの即興演奏とは一線を画しており、ドルフィーが残した録音を一聴すれば、正しく伝統的なジャズ・フォーマットの枠の内で展開される、真に「フリーな 」表現が信条であった、という意味からであることは 容易に理解されるでしょう。
 ドルフィーの気迫が横溢した時のインプロヴィゼーションの技術的な充実度は、生前 彼自身が共演した、すべての偉大な演奏家をも(チコ・ハミルトン、チャーリー・ミンガス、さらに 敢えて ジョン・コルトレーン さえも含め )凌いでいた - と断言します。
Far Cry_Prestige Out To Lunch_Blue Note 4163
(左 )「ミス・アン 」のオリジナル演奏が聴けるアルバム「ファー・クライ 」(Prestige )
(右 )ブルーノートに遺された 最高傑作「アウト・トゥ・ランチ 」(Blue Note 4163 )



■ 他界した演奏家であっても 「生きてます 」 
 さて、すでに他界している演奏家(例えば、エリック・ドルフィー )のプレイを 私たちが 実際に「体験 」することは、言うまでもなく 不可能です。
 しかし、現代には 高品質の「録音技術 」があります。
 残された「 」記録は、その演奏家自身の「存在」を意味するメタファーともなり得ます。
 たしかに、すでにドルフィー本人は他界していますが、例えば、「今晩、うちへドルフィーを聴きに おいでよ 」という言い方は、「あり 」ですよね。
 エリック・ドルフィー本人に触れる、という意味での 実「体験 」は決して叶いませんが、レコード(録音 )によって「ドルフィーを聴く 」ことは、「出来 」ます。
 ここで言う「ドルフィーを聴く 」という行為は、「ドルフィーの演奏した録音を聴く 」ことの 換喩メトニミー : metonymy )ですが、それは 言うまでもなく 概念の関連性に基づいて語句の意味を拡張して用いる比喩の一種として使ったものです。
 以下は、ひとつのレトリック
 仮に「音が残っている 」という意味を「演奏家の“存在”が残っている 」=「演奏家が存在している 」ことと等しいもの と考えることにします、些か乱暴ですが。そして その録音を残した演奏家が すでに現実には 他界していたとしても、これが言えるとしたら。。。
 これは 「 “音”が残っていて、繰り返し再生されている間は、演奏家も“存在”し続ける 」、「 演奏した録音が残っていて、これを聴く人がいる限り その演奏家は死なない 」という 実にファンタスティックな表現 - 音楽を愛好する人でしたら(文学的な意味で )きっと賛同が得られる 美しい修辞法ではないかと思うのですが?

  ―  エリック・ドルフィーは、まだ 「生きてます 」。
 それを言ったら、同じ意味で サッチモも、チャーリー・パーカーも、モンクも、コルトレーンも、それに マイルスザヴィヌル、そして ジャコだって・・・


次回は、 他界した演奏家が 「甦(よみがえ )る 」 ことも ある? 


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