スケルツォ倶楽部 Club Scherzo
「アフター・シュトラウス & “ バイ・シュトラウス ”」
After-Strauss & “By Strauss”
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(5)1904年 グスタフ・マーラー 交響曲第5番 から
   第3楽章 スケルツォ Kräftig, nicht zu schnell.
   (力強く、速すぎずに )

 
Solti Mahler No.5 (KING KICC‐8433) 「スケルツォ・サンドを ひとつ」 「はい、どうぞ シンメトリーです」

マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調
ゲオルク・ショルティ指揮/シカゴ交響楽団
録音:1970年3月~4月 シカゴ、メディナ・テンプル
Decca(キング/KICC-8433)
 

 マーラーの交響曲におけるスケルツォは、揃いも揃って個性的な傑作ばかりです。
 作曲者自身の指揮によって 1904年 ケルンで初演された傑作 交響曲第5番 嬰ハ短調は、前後二楽章(パン2枚)ずつで、 真ん中の 美味しい 具「スケルツォ」を はさんだ シンメトリー(対称)配置 の サンドイッチ です。
 この第5番に限らず、マーラーの交響曲は、構造上 スケルツォをセンターに据えられていることが多い、というご意見の人の、たいへん興味深い文章を読んだことがあります。・・・すみません、どこで 何で 読んだのか 今 思い出せません。・・・いや、もしかしたら 自分で思いついて 悦に入っているだけなのかもしれません。それもわかりません。誠に不本意ながら、以下は 甚だ不確かな 私の記憶です。詳しく ご存知の方、いらっしゃいましたら ぜひ ご教示頂きたく存じます

 マーラーの交響曲
  その構成におけるスケルツォ位置の不思議

 ・・・たとえば 第1番「巨人」には、もともとは現行の第1楽章の次に「花の章」が置かれていたので、本来 五楽章構想だったと。だからセンターにスケルツォが置かれることになります。
 第2番「復活」スケルツォは第3楽章にあり、しかも その一部は 全曲の総括たる終楽章冒頭にも再登場しています。
 第3番も、小さな4・5楽章を 終楽章への橋渡し もしくはインテルメッツォと解釈した場合、 第3楽章のスケルツォは センターと考えられます。
 第4番を、その人は 実におもしろい解釈をされていました。 曰く この交響曲は 「三楽章の交響曲+1曲(第4楽章のこと)」なのだ というお考えです。お説には たいへん説得力がありました。詳細は省きますが そう考えた場合、スケルツォの第2楽章は 当然センターでしょう。
 第5番は、言うまでもなく。
 第6番「悲劇的」は、記憶が不鮮明です。例の 二つの中間楽章 入れ替えが 関係しているようでした、曖昧(あいまい)で すみません。
 第7番「夜の歌」も、言うまでもなく。
 第8番だけは、別格。
 「大地の歌」は、第3・4・5楽章のいずれも スケルツォで、これら三楽章がセットで センターである とみなすことができます。
 そして 最高傑作の第9番は、ふたつの大きなスケルツォが センターに聳(そび)え立っています。

 是非はともかく、とてもおもしろい、見事な洞察と思います。
 ついでに申し添えると、「大地の歌」と 第10番未完成 は 別として、マーラーの 1~9の交響曲全てを並べたとき、まさしく ど真ん中にくるのが この「第5番のスケルツォ」である ということも 言えます。これは果たして偶然でしょうか、もしもマーラー自身が、生涯を賭けて これを意図的に仕組んでいたとしたら 、この上ない、神のようなスタイリストですよね!
Gustav Mahler(LONDON)108×160 ・・・そのとおりだよ、よくわかったね?(マーラー)

 もとい、第5交響曲のスケルツォ楽章に話を戻し・・・
 これは、傑出したホルンのソロや、この時代のウィンナ・ワルツのリズムの特徴を巧みに盛り込むなど、その規模もスケールの大きさも注目に値する作品となっています。
 開始後まもなく、木管に繰り返し提示される短く鋭いリズム動機(0:44~)は、この楽章を通して何度も出てきますが、これはウィンナ・ワルツよくあるリズム・パターンを矮小化したかのようです。02:21 頃からの、いかにもマーラー風のレントラーにかかるポルタメントのとろみ具合も気持ちよいです。
 私の萌える部分は 04:50 のオーケストラ大爆発。
 かつて 父の所有していたパイオニアの70年代型セパレート・シスコン(死語?)で、ショルティのLP盤をかける度に、決まってこの場所でレコードの針が飛んでいたことを憶えています。その直後 複数のホルンが天に向かって順々に並んで連呼・咆哮する瞬間は、いかにもマーラーらしい荒涼として空虚なる風景が頭の中で広がります。この大爆発は、もう一度スケルツォのクライマックス 13:52 でも再現されますが、その時には 手加減せずに炸裂したシカゴ響の音圧で録音レヴェル・メーターもいっぱいに振り切れてしまったらしく、一瞬音が飽和して歪んでしまっています。
 ショルティシカゴ響就任の 最初のシーズンのニューヨーク公演で取り上げたのが、このマーラーの第5交響曲でしたが、この時 「演奏が終わるや聴衆はまるでロック・コンサートのように総立ちで熱狂し、それは後にも先にも経験がないほどだった」と、ショルティ自身が書き残しています。この録音は そのコンサート直後のもので、剃刀のように切れる弦セクションの鋭さ と、ハーセス(tp.) Adolph Herseth、クレヴェンジャー(hr.) Dale Clevenger ら名手が在籍する金管セクションの凄さには圧倒され、言葉を失います。
Adolph Herseth (The Chicago Principal))Universal   Dale Clevenger (The Chicago Principal))Universal
 Adolph Herseth (tp.)   Dale Clevenger (hr.)    
  
 ショルティ/シカゴ響は 同曲を1990年頃にも再録音していますが、この1970年盤の「肩をいからせた軍団が通過するような(吉井亜彦氏)」パワーを 超えることは出来ず、「ショルティのマーラー第5」と言えば、今日では 殆んど こちらを指して語られることが多いですよね。

■ 「カルロス・クライバーウィンナ・ワルツには
  ラテン感性の直感的閃き が生きている 」

Carlos kleiber
 金子建志先生が書かれた文章に 興味深いコメントをみつけました。 それは、「カルロス・クライバーのウィンナ・ワルツには ラテン感性の直感的閃きが生きている 」 という興味深いコラム( 「クラシック ディスク・ファイル音楽之友社より ) 」 )。
 - ウィンナワルツは 楽譜としては概して単純なものだが、仮に 一拍を三等分するような形でコンピューターで再現したとしても、全くウィンナワルツにはならない。よく知られているのは、二拍目にアクセントが来て、リズム的にも やや前に来ること。そしてウィーンのオケでは その際、かなり元弓を使って、擦る感じではなく、スタッカーティッシモ的に、鋭くぶつけるように弾くことによって、あの弾(はず)んだニュアンスを出す。
 バルセロナ・オリンピックの時に スペインで行なわれたガラ・コンサートのライヴだったと記憶しているが、会場から起こった拍手が やがて手拍子に変わった。それが 同一のアクセントが連続する単純な一拍子なら驚かないが、(その時の)スペインの手拍子は 三拍子! それも均等の正三角形ではなく、明らかに そのアクセントやニュアンスにメリハリのある 生きた三拍子を、会場全体の聴衆が一体となって叩いたのだ。何と素晴らしい、リズムだけによる素のワルツであったろうか ! 筆者は三拍子を体系的に研究したわけではないが、どうもウィンナ・ワルツのリズムは、実は ラテン的な影響の方が強いのではないかと、その時に感じたものだ。

 ( もう一ヶ所、同じく金子氏の文章から抜粋。 )

 - ちなみに バルビローリの指揮したマーラー「5番 」のスケルツォ楽章 は、イギリスのオケなのにもかかわらず、最も“ウィーン風の”演奏になっている。 クライバーのワルツが、あれほど直感的な閃光としてウィーン的なリズムを放射するのも、カルロスが その成長期をアルゼンチンで過ごし、ラテンの完成を自然に吸収したことと関係づけて考えられるのではないだろうか。 少なくとも、ウィーンの伝統だけにすがっていれば善しとする - 言葉で言うなら 訛りだけが勝負 - というような 安直な土産物屋的な商売の姿勢ではない、新たな活性化が行なわれた結果であるのは 確かであろう。


1905年  日本帝国海軍が、ロシア・バルチック艦隊を撃破、日露講和条約 
       「血の日曜日」事件、ロシア革命勃発 
       アインシュタイン、特殊相対性理論を発表
       リヒャルト・シュトラウス、「サロメ」初演
       レハール、喜歌劇「メリー・ウィドウ」

       スコット・ジョプリン、「ビンクス・ワルツ」に続く・・・

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