スケルツォ倶楽部
名優ゲアハルト・シュトルツェの演技を聴く
 オルフ「オイディプス王」(クーベリック)D.G.ゲルハルト・シュトルツェ(最小サイズの肖像写真)  目次は こちら

(23)1964年 - カラヤン、ウィーン国立歌劇場 辞任の年

■ 1963年「ロベスピエール 」
~ アイネム : 「ダントンの死 」
 
 
 ウィーン国立歌劇場の「ポッペーアの戴冠 」に出演後、6月中旬頃 ゲアハルト(ゲルハルト )・シュトルツェは、ヴェルナー・エックの後輩である ゴットフリート・フォン・アイネム Gottfried von Einem( 1918 – 1996 )が作曲した フランス革命を題材にしたというオペラ「ダントンの死 Dantons Tod 」( “ヴォツェック”の原作者ビュヒナーの戯曲を基にした作品 )において、主人公のジョルジュ・ダントンカミーユ・デムーランらを 断頭台に追い詰める 敵(かたき )役 ジャコバン派の党首マキシミリアン・ロベスピエール役として出演した - という興味深い記録があります。
 悪役キャラのイメージとしては、シュトルツェにドンピシャ ハマっていると思うのですが。正規録音、残っていないのでしょうか・・・聴きたい。
 この舞台で 英雄的なタイトル・ロール、悲劇の政治家ダントンを演じていたのは バリトンのエバーハルト・ヴェヒター、指揮はフェルディナント・ライトナーでしたが、残念なことに 発起人はこの音盤を所有しておらず 演奏以前に 音楽自体も未聴です。詳細は不明、どなたか親切な同好の方 いらっしゃいましたら、ぜひ教えて頂きたいものです。

■ シュトルツェ、休息をとる

 そして この公演後、シュトルツェは しばし休養期間を置いたのではないか - と思われます。
 なぜなら、このオペラ「ダントンの死 」と ほぼ同時期(6月8日~13日 )に カラヤンウィーン国立歌劇場における三度目のワーグナーニーベルングの指環 」完全上演を実施していますが、そのキャストに シュトルツェの名前は入っていません。また 例年であれば 毎年7月から8月にかけて必ず登場していたバイロイト音楽祭にも当年(1963年 )は出演していないからです。
 今まで無理を圧(お )して(それこそ病気でさえも舞台に立ち )続けてきた 仕事一筋職人肌のゲアハルトでしたが、彼のキャリアの中でも おそらく初めての長い休養だったのではないかと思われます。

 ・・・で、シュトルツェ活動再開の出演記録は ようやく12月になって見つかります。
 それは、第二次世界大戦で連合国側によって爆撃されたミュンヘンのバイエルン国立歌劇場(州立劇場 )の記念すべき再建公演における 柿(こけら )落とし上演でした。
 1963年 12月1日の演目は、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ 」を 花形カラヤンが指揮するというものでしたが、その配役も クリスタ・ルートヴィヒレオノーレ )、フリッツ・ウールフロレスタン )、ワルター・ベリー典獄ピツァロ )、ゴットロープ・フリックロッコ )、ヘルマン・プライ大臣ドン・フェルナンド )、ハニー・シュテフェックマルツェリーナ )、そして われらがシュトルツェが 端役ヤキーノに(! )という 殆ど理想的なメンバーでした。 ・・・が、残念なことに 発起人は この音盤も所有しておりませんから これについても語ることが出来ません。うーん、悔しい、聴きたい。 アイネムの「ダントンの死 」とともに 正規な実況録音盤の登場に ぜひとも期待しましょう。


■ カラヤン、ウィーン国立歌劇場を辞任する

 翌1964年4月1日、カラヤンウィーン国立歌劇場 ワーグナーの楽劇「ラインの黄金 」の単独上演を行ないます。
 シュトルツェは 当たり役の ローゲを ここでも演じていますが、それまでずっと常連だったハンス・ホッターの代わりに、珍しくもエバーハルト・ヴェヒターが主神 ヴォータン役(! )を務めているのが 興味を惹きます。
 そのヴェヒターの定席だった雷神ドンナーのポジションには、若手のロバート・カーンズが収まっています。他は、概ね常連のメンバー、すなわちアルベリヒアロイス・ペルナーシュトルファーミーメペーター・クラインフリッカイーラ・マラニウクフローアントン・デルモータ、などです。
 しかし、この年 6月17日 楽劇「影のない女R.シュトラウス作曲 ) 」上演を最後に、(正確には 5月8日付 )カラヤンは 同歌劇場の芸術監督を突然辞任してしまいますので、シュターツ・オパーでカラヤンが指揮を執った演目に「 われらがシュトルツェ 」が参加した演目は、この「ラインの黄金 」が最後だったはずです。
 
 60年代のカラヤン 
 カラヤンが在任期間中、ウィーン国立歌劇場で 彼が実践した画期的な成果は数多くありますが、その中でも「イタリア・オペラは オリジナルのイタリア語で 」という原語上演への徹底改善( 今日では 当たり前になっていますが、当時 外国語のオペラは 聴衆に判りやすいようにとの配慮からか、わざわざドイツ語に翻訳した歌詞で歌われることが多かったのだそうです ・・・あ、そう言えば カラヤン体制への まだ過渡期だった頃の ピッツェッティの歌劇「(カンタベリー )大聖堂の殺人 」は イタリア語原語のオペラですが、ホッターシュトルツェも独語歌唱でしたね ⇒ 記事はこちら )や、名門ミラノ・スカラ座との演目連携などが 取り分け目覚ましい成果でした。
 しかし、言語上演や外国の劇場との連携は、合唱団員を含む劇場スタッフ全員に とても大きな負荷をかけることになりました。時間外労働もどんどん過重になり、歌劇場内の労使関係も緊張、何か起これば一触即発の空気となっていました。そんな中、当時の劇場副監督エゴン・ヒルベルトカラヤンとの人間関係を決裂させることになった一件が、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム 」公演初日(11月3日 )に起きた不幸な事件です。

 ヒルベルトとカラヤン(右 )白水社
 劇場副監督エゴン・ヒルベルト(左 )と 不機嫌なカラヤン (白水社 )
  
 カラヤンミラノ・スカラ座の歌手のみならず プロンプター( 舞台上の歌手に 台詞の出だしや所作合図を送る要員 )をも国立歌劇場の職員でなく、スカラ座のスタッフから起用してしまったことから 労働組合が激しく反発し、何と その晩オーストリア大統領が観覧する予定だったプレミエ公演の幕がまさに上がろうという その直前、ストライキを決行してしまったのです。
 副監督ヒルベルトは 持ち前の政治力を発揮、小狡くも劇場スタッフ側に味方してうまく立ち回ったため、結局カラヤン独りが悪役にされ、その面目も丸つぶれとなりました。 ・・・カーテンの降りた舞台上で - 大統領と聴衆、歌劇場スタッフの前で - ヒルベルトは争議の声明文を大声で読み上げながら 同時にカラヤンにキスまでして その機嫌を取り結ぼうとしますが、屈辱の淵に沈むカラヤンは、自分自身を ゲッセマネの園イスカリオテのユダに接吻をもって裏切られたキリスト・イエスの姿に投影させていたに相違ありません。
 しかし結局 カラヤンが折れて妥協し プロンプターを一切使わず、この「ラ・ボエーム 」は上演されることになるのですが、残された11月9日の貴重な実況録音盤で聴いてみると、たしかに 異様な熱気と躍動感に溢れた 只ならぬ上演の雰囲気が見事にとらえられています。

ウィーン国立歌劇場 1963年11月 9日 「ラ・ボエーム 」 実況録音盤
 歴史的な1963年11月30日の「ラ・ボエーム 」ライヴ盤
ミレッラ・フレーニ(ミミ )、ジャンニ・ライモンディ(ロドルフォ )、ジュゼッペ・タデイ(ショナール )、ローランド・パネライ(マルチェルロ )、イーヴォ・ヴィンコ(コルリーネ )、ヒルデ・ギューデン(ムゼッタ )他
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ウィーン国立歌劇場管弦楽団、合唱団
(RCA 74321 57736 2 )

  この一件がトリガー(引き金 )となって、カラヤンの総監督辞任へ至るわけですが、ウィーン国立歌劇場の運営陣とカラヤンとの間には 他にも目に見えぬ長年の要因が積り積もっていたものかもしれません。当時 歌手からも聴衆からも それこそ圧倒的な支持と尊敬を得ていた監督就任中のカラヤンだっただけに、事の真相には興味津々 - と、つい長々と書いてしまいましたが、ここではシュトルツェの出番はありませんので、このくらいにしておきましょう。

■ 1964年 シュトルツェ、バイロイト音楽祭への出演状況

 シュトルツェは、1964年7 ~ 8月のバイロイト音楽祭では、旧ユーゴスラヴィア出身の指揮者ベリスラフ・クロブチャール Berislav Klobucar の「指環 」でローゲ役のみ務めています。当年は もはや他の演目には出演しておりません。この年の彼の客演は、実に2年ぶりでしたが、その時点ですでにこれ以降の出演予定は無かったのではないかとも推測されます。
 と言うのも、この後 シュトルツェバイロイトの舞台に戻ってくるのは4年後の1968年(および翌69年 )、ロリン・マゼールが指揮する「指環 」におけるミーメ役としてなのですが、これは 当初予定されていたエルヴィン・ヴォールファールトが急逝したための「代役 」という 緊急措置として要請されたものだったからです(また後日、詳しく語りたいと思います )。


■ 余談 : 戦後バイロイト「指環 」の指揮者、
   不思議なシンクロニシティ


 ところで、ここまでのバイロイト音楽祭には 実に興味深い偶然がありました。戦後1951年に再開された同音楽祭で「指環」を振った歴代の指揮者は、奇妙なことに しばらくの間 皆揃って頭文字のアルファベットが「K 」だった - というシンクロニシティ(偶然の一致 )です。 
 ・・・ハンス・クナッパーツブッシュ Knappertsbusch、ヘルベルト・フォン・カラヤン Karajan、ヨーゼフ・カイルベルト Keilberth、クレメンス・クラウス Krauss、ルドルフ・ケンペ Kempe、そして ベリスラフ・クロブチャール Klobucar ・・・ 、果たして このジンクスがいつまで続くのか、舞台裏では歌手も裏方も皆面白がって賭けの対象にしたりと、結構 白熱した話題になっていたそうですよ。
 しかし、遂に(?)Kを冠した指揮者の行列に終止符を打ったのが、1965年 - カール・ベーム Karl Böhm の振ることが決まった年 - というわけです。尤も ベームのファースト・ネーム、カールは K で始まってはいましたが・・・。
 ちなみに もうひとり イニシャル K のビッグネームと言えば、カルロス・クライバー Carlos Kleiberが バイロイト祝祭劇場に初登場したのは、残念ながらジンクスもとっくに途切れた1974年のことでした(って、演目も違いますし・・・ So What ? という どうでもいい話でしたね。 ・・・どうもすみません )。


次回 (24)プフィッツナーを聴く前に、「パレストリーナ」を予習する。 に続く・・・

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